蜀の後期軍人や文官には人材が払拭しており、
代表的な人物なのは諸葛孔明の弟子である姜維(きょうい)や
魏から逃れてきた夏侯覇(かこうは)などが蜀の代表的な人物ではないのでしょうか。
もちろんほかにも優れた人物がおりますが、
今回紹介する人物もあまりみなさんには馴染みのない人であるかもしれません。
劉禅に忠義を尽くして亡くなった張嶷(ちょうぎょく)。
彼は動けない体を蜀のために燃やし尽くした人物です。
今回は劉禅に忠義を尽くした張嶷の最後をご紹介したいと思います。
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病によって任地を去る
張嶷は孔明が南蛮征伐を行った後も反乱を起こしている南方を統治するため、
南蛮地方の諸豪族を時に武力で従わせ、時に仁愛を持って従わせておりました。
その結果、南蛮地方で反乱は一切起きなくなり、
彼は南蛮の諸部族から大いにしたわれることになります。
しかし彼の病は日々の激務によって病に蝕まれてしまい、
任地を去らなくてはなりませんでした。
彼が任地をさる時には多くの民衆が彼を見送りに来て、
涙を流して彼との別れを惜しんだそうです。
こうして任地を去った張嶷は成都の自分の屋敷で、
病気を治すように沙汰がくだされることになります。
魏からの降伏者を迎え入れるべし
蜀・魏国境に近い狄道(てきどう)の長である李簡(りかん)という人物が、
蜀に降伏したいと願い出てきます。
彼の降伏の申し入れを聞いた蜀の朝廷は当初疑っておりましたが、
大将軍である姜維や張嶷の上奏が「彼の降伏を受け入れるべし」との意見であったため、
劉禅も彼らの意見を採用して李簡の降伏を援助するべく
軍勢を差し向けるように命令を下します。
【北伐の真実に迫る】
ボロボロの体を押して戦へ参加
張嶷は南蛮で病にかかってしまい成都で休養しておりましたが、
一向に病が治る気配を見せませんでした。
そんな中彼の耳に姜維が李簡の降伏を受け入れるため、
軍勢を率いて出陣するとの情報が入ってきます。
張嶷は劉禅に「私は国賊である魏軍と戦って命を終えたいと思います。」と上奏。
張嶷の上奏文を読んだ劉禅は涙を流しながら彼の意見を受け入れて、
姜維の軍勢に参加することを許可します。
劉禅に別れを告げる
張嶷は戦準備を終えると劉禅の元へ行き「陛下。私は先帝と陛下に格別に目をかけられて、
ここまで出世することができました。
病のせいで私が亡くなってしまえば、
陛下に御恩を返すことができなくなってしまうのが不安でたまりませんでした。
しかし今回大将軍の軍事に参加することができました。
そこで私の最後の勤めとして、此度の戦いで涼州を平定することができれば、
彼の地で守将として蜀を守っていきたいと思っており、
もし涼州を領有することができなくても我が一命を持って戦場で捧げたいと思います。」と
述べます。
この言葉を聞いた劉禅は再び涙を流しながら側近へ「張嶷こそ忠義の武人だ」と言って、
褒め称えたそうです。
徐質の軍勢と激闘するも・・・・
張嶷は姜維軍に参加して李簡を迎えに行きますが、
魏軍も徐質(じょしつ)に軍勢を与えて陣営を築いておりました。
張嶷は自ら軍勢を率いて徐質軍と激闘。
張嶷は戦いの最中に亡くなってしまうのですが、彼の軍勢は奮闘した後撤退します。
張嶷軍はかなりの損害を受けることになりましたが、
徐質軍が受けた損害は張嶷軍の倍の損害を受けており、
表面上は蜀軍を撃退し勝利を得まることに成功します。
しかし実質的な損害を考えるととても勝利とは言えないほどの
ダメージを負ってしまったそうです。
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三国志ライター黒田レンの独り言
レンはこれほど重態であるにも関わらず国から受けた恩を返す為、
重態である体を押して戦いに出た武将を知りません。
そのため蜀軍の後期の将軍達において彼こそ忠義の武人と言ってもいいのではないのかなと思います。
姜維も夏侯覇も諸葛噡(しょかつせん)も皆忠義の臣と言っていいのだと思いますが、
これほど鮮烈な忠義心を蜀で示したのは張嶷が初めてではないのかなと思います。
参考文献 ちくま文芸文庫 正史三国志蜀書 今鷹真・井波律子著など
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