三国志には色々な計略を使って敵の兵士達に損害を与えております。
横山光輝(よこやまみつてる)氏原作のマンガ・三国志では、
諸葛孔明(しょかつこうめい)が司馬懿(しばい)を討ち取るため、
地雷を使った計略を発動。
また三国志一の兵法マニア・曹操は、
袁尚(えんしょう)の本拠・鄴(ぎょう)を陥落させる時には、
水攻めを使用して鄴城を手に入れております。
このように様々な計略を使用して敵軍と戦っていた三国時代ですが、
一体どの計略が一番強かったのでしょうか。
一番敵に損害を与えた計略をランキング形式で決めてみました。
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この記事の目次
三国志最強計略ランキング第3位:天下無双・呂布も敵わなかった水攻め
日本の戦国時代では豊臣秀吉(とよとみひでよし)や
関ヶ原の戦いで西軍の実質的な総大将として君臨していた石田三成(いしだみつなり)が、
使用していた事で有名な水攻め。
三国志の時代でもこの水攻めは大きな効果を上げております。
この水攻めの計略を使用したのは三国志一の英雄で、
人材マニアの曹操(そうそう)です。
曹操はどの戦いの時に水攻めを使用したのでしょうか。
正史三国志・魏書曹操伝からご紹介しましょう。
呂布との最終決戦で使用した秘策
曹操は呂布(りょふ)を下邳(かひ)城へ追い詰めることに成功し、
下邳城を包囲して呂布と対峙することに。
呂布は下邳城に追い詰められると曹操軍を撃退するため城の防備を固めます。
こうして曹操と呂布の最後の戦いのゴングが鳴ります。
曹操は全軍に下邳へ総攻撃を行いますが呂布軍の城からの猛反撃に遭ってしまい、
総攻撃が失敗してしまいます。
曹操は一度の失敗にめげることなく幾度も下邳城へ攻撃を仕掛けますが、
その度に撃退されてしまうのでした。
曹操は呂布軍籠る下邳城へ何度攻撃を仕掛けてもその度に敗北してしまい
弱気になってしまった事で退却しようとします。
しかし曹操軍の軍師であった郭嘉(かくか)と荀攸(じゅんゆう)は
「下邳城近くを流れている沂水(きすい)と泗水(しすい)を決壊させて、
水攻めを行えば呂布軍の士気が低下して勝つことが出来るでしょう」と曹操へ進言。
曹操は郭嘉と荀攸の進言を受けて水攻めの作戦を決行する決意をし、
沂水と泗水を決壊させて下邳城へ水を流し込むことに成功します。
この作戦を決行してから一ヶ月後、
呂布軍の将軍達が呂布の軍師であった陳宮(ちんきゅう)を捕らえて、
城の城門を開いて降伏。
その後呂布を捕虜にすることに成功し、
呂布との最終決戦はなんとか曹操の勝利によって幕が閉じるのでした。
レンは呂布と曹操の戦いの決着を付ける契機となった「水攻め」こそ、
三国志最強計略ランキングにおいて第三位に位置づけさせていただきました。
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三国志最強計略ランキング第2位:孔明が考案した地雷
さて続いての三国志最強計略ランキング第2位は、
蜀の天才丞相・諸葛孔明が開発されたと言われる地雷です。
もちろん地雷は三国志の時代に発明されておらず三国志演義しか登場しない兵器です。
地雷なんて物を本当に孔明が開発していたとしたら、
間違えなく蜀が魏を討伐して天下統一しているはずですから。
では三国志演義の諸葛孔明は一体どこでこの地雷を使ったのでしょうか。
関連記事:木牛流馬って何?孔明の発明で輸送問題が解消し北伐で大活躍?
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司馬懿を討ち取る時にしようしてみたけど・・・・。
諸葛孔明は北伐を完遂させるため、
魏軍の総大将であった司馬懿をおびき寄せて地雷で爆破する作戦を計画。
司馬懿は孔明の計画を知らずに退却していく蜀軍を追撃していきます。
そして司馬懿は蜀軍を追撃していって谷に突入。
孔明は司馬懿が谷に突入したことを知ると谷に埋まっていた地雷を次々に、
爆破させていきます。
この結果魏軍は大損害を負って壊滅的なダメージを追ってしまうのでした。
更に魏軍総大将であった司馬懿も地雷で爆破される寸前まで追い詰めれてしまいますが、
大雨が降ってきたことによって谷にまん延していた火災が鎮火。
司馬懿は火災が鎮火されたことによって急いで谷から逃亡して言ったそうです。
このような兵器が三国志に登場している時点でかなり怪しいのですが、
一応三国志演義に登場しているので、
三国志最強計略ランキング第2位に選ばせていただきました。
しかしやっぱり創作物であるため第2位どまりにさせていただきました。
三国志最強計略ランキング第1位:魏も蜀も大損害を受けた火計
三国志最強計略ランキング第1位にランクインしたのは火計です。
火計で有名な戦いは赤壁の戦いや夷陵(いりょう)の戦いと言えるでしょう。
今回は赤壁の戦いで使用された火計での威力をご紹介するのではなく、
夷陵の戦いにおいて使用した火計の威力をご紹介したいと思います。
劉備軍を壊滅させるほどの威力であった火計
孫権は劉備軍が孫呉の領土である荊州(けいしゅう)へ侵攻してくることを知ると、
陸遜(りくそん)を孫呉の総大将として孫呉軍を率いさせて劉備軍迎撃に出陣させます。
陸遜は総大将として孫呉軍を率いて荊州方面に到着すると、
劉備軍を迎撃することなくじっとしていました。
劉備は孫呉の軍勢が攻撃してこないことをいい事に孫呉の領土へ侵攻していき、
次々と城を陥落させます。
孫呉の武将達は陸遜が劉備軍を迎撃しないでじっとしている事に激怒し
「劉備軍を攻撃しないでどうやって勝つつもりなんだ!!」と詰め寄ります。
陸遜は諸将へ「劉備軍を攻撃しなかったのは劉備が軍事経験を豊富に持っており、
孫呉の領土へ侵攻したばかりの時に攻撃を仕掛ければ、
激しい反撃と巧みな策略を持っている可能性があったからだ。
しかし現在の劉備軍は孫呉軍が全然攻撃を仕掛けてこないことで気が緩んでおり、
蜀軍の兵士の士気も我が軍の陣営を攻撃して陥落させることができないため落ちている。
今こそ反撃するべき時である。」と言って諸将に劉備軍の陣地へ攻撃するように命令。
こうして孫呉の軍勢は劉備軍へ反撃を仕掛けますが撃退されてしまうのでした。
諸将は陸遜へ「兵士をただ殺しただけではないか」と再び激怒。
だが陸遜は「これで劉備軍の弱点がわかったぜ。
全軍に茅へ火をつけて劉備軍の陣地へ攻撃を仕掛けるように」と
諸将へ再度命令をします。
諸将は陸遜の命令に従って夜中に劉備軍の陣地へ。
そして孫呉の兵士達は火をつけて茅を劉備軍の陣地へ投げ込んでいきます。
この結果劉備軍の全陣地は陸遜の火計のせいで火に包まれてしまい、
大混乱を起こしてしまいます。
陸遜は劉備軍の陣営が火に包まれた事を知って全軍に総攻撃を行うように命令。
劉備は蜀軍の陣営が火に包まれたことを知って退却する決断を行い、
急いで撤退していくのでした。
こうして陸遜は蜀軍を撃破することに成功し火計を用いて攻撃を行った結果、
蜀軍へ数万人の死者を出し、何人もの将軍を討ち取ることに成功するのです。
また永安(えいあん)へ命からがら撤退した劉備は、
夷陵の戦いで敗北したことがきっかけで病にかかってしまい、
夷陵の戦いから数年後に亡くなってしまうのでした。
数万人の兵士の命を奪い、多数の将軍を討ち取り、
一国の君主の命を奪う契機を与えた火計こそ、
三国志最強計略ランキング第1位と言えるのではないのでしょうか。
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三国志ライター黒田レンの独り言
今回の計略ランキングには兵士を使った伏兵や十面埋伏の計などを入れておらず、
謀略に近い計略も入れておりません。
そのため次回は謀略や兵士を使った伏兵などの計略のランキングを
ご紹介したいと思います。
このように計略にも注目して三国志を楽しむのも
新しい三国志の楽しみ方と言えるのではないのでしょうか。
参考文献 ちくま学芸文庫 正史三国志・魏書・呉書
三国志 潮漫画文庫 横山光輝著など
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