三国で最も地味な国、呉、しかし、そんな呉にも誇れるモノがありました。それは、孫権(そんけん)のどうしようもない酒癖、、ではなく、長江を含め、多くの河を持つ国柄で大発展してきた造船技術でした。今回は、呉が誇る巨大戦艦、長安について解説しますよヒュー―!!
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当時の世界最大の巨艦 3000名が乗船できる長安
篠田耕一著、三国志軍事ガイドには、当時の呉が三国随一の水軍を持つ国である事が書かれていますが、その中には「巨艦」というカテゴリーがあり、孫権が実際に保有していた巨大戦艦、「長安」と「飛雲」の事が記述されています。それによると、長安は楼船(ろうせん)と呼ばれる大きなサイズの軍艦を、二隻繋げた船で、搭載人数3000名という巨大戦艦でした。
どうして、呉の帝都は建業なのに、船の名前は長安なのでしょう。或いは、孫権の、いつか長安を落として天下を統一するという願望が込められた船なのかも知れませんね。
巨艦長安の攻撃力は どの程度だったのか?
巨大戦艦と聞くと、気になるのは攻撃力ですが、長安はどの程度だったのでしょうか?
それは残念ながら皆無に近いようです、というのも長安は甲板に基壇を積み上げ版築で土を固めて造った城壁を持つ水上の城で、上に伸びているだけ重心に安定性がなく同時に大変な重量があるので動きも鈍い船でした。リアルに考えると戦艦というよりは、巨大な兵員輸送船と考えた方がよく、一軍が丸々移動できるプラットフォームだと考えた方が良さそうです。攻撃さえ、受けなければ、一度に3000もの兵力を揚陸できるわけで使い方次第では、大きな戦力になるでしょう。
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呉ばかりではなく、蜀にも大艦隊があった!
呉から見ると、かすみがちですが、実は蜀漢にも呉に次ぐ艦隊がありました。私達は、蜀というと、諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)の北伐を連想してしまいますが、実際には、荊州から、河を遡って成都に至る方法もあったのです。
劉備(りゅうび)の入蜀も、陸路ではなく河を遡上して向かっていて、蜀への出入りが必ずしも陸路では無かった事が分かると思います。そのような事もあり、蜀は、呉からの侵攻を警戒して艦隊を整備していたのです。しかし、その蜀の艦隊は、劉備が起こした夷陵の戦いで敗戦した時に、呉の襲撃により焼き払われてしまいました。その後、諸葛亮は、呉を刺激しないように大艦隊の建造を凍結し、同時に、魏に対抗する手段として、陸軍力を増強したので蜀政権では、再び、艦隊が整備される事はありませんでした。
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呉を滅ぼした王濬の艦隊は蜀で建造された
蜀漢政権では、拡充されなかった蜀の水軍ですが、その造船技術が衰える事はありませんでした。実際に、西暦263年に蜀を降伏させた鄧艾(とうがい)は蜀で呉を討伐する為の軍艦を勝手に建造していましたし、呉を滅ぼした王濬(おうしゅん)は、その船団を蜀で建造していました。
つまり、呉の水軍は、蜀の造船技術がなければ滅ぼす事は出来なかったのです。もしかすると、滅ぼす順番が蜀→呉になったのも、陸軍国である魏が、造船技術を得る為だったのかも知れません。実際に王濬が乗っていた船は全長が170メートルもあり、当時、王濬の船を見た人々は、
「全長が120歩あり、2000人以上が乗船し、まさに木で造られた城のようである櫓が立ち、四つの城門がついており、甲板では、馬を走らせる事ができる」
などと、記録されていて、船の大きさを物語っています。
三国志ライターkawausoの独り言
今回は、なかなか語られる事のない、三国志の時代の巨大戦艦について書いてみました。呉については、外洋にも出る事が出来る船もあり、当時の世界では、最高水準の造船技術を持っていたのです。
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