三国志の戦場で実際に大きな働きをするのは武将や知将ではなく、その手足として命を懸けて働く、名もなき兵士達です。そして、兵士である彼らも、もちろん闇雲に戦っているわけではありません。彼らは、ある程度の数で纏められ、多数で少数を包囲する形で敵を撃破します。このような兵士をまとめた単位の基礎が隊という単位で伯長が統率しました。
5人で伍、10人で什、56人で隊
三国時代における軍隊の最小単位は伍(ご)と言い、5人をチームに伍長を置きました。この伍が2つ集まったチームを什(じゅう)と言い什長を設置して指示を出します。そして、この什が5つ集まったチームを隊(たい)と言い伯(はく)長が隊長です。内訳は40人の兵卒に10人の伍長、5人の什長、そして伯長1名で総数56名、伍長を除く5人の什長と伯長は指揮官なので、実質兵力は50名となります。
※ただし、蜀漢では、隊ではなく屯(とん)と呼んだようです。
ちなみに、この隊が5集まると曲(きょく)になり250人、リーダーは部曲督(ぶきょく・とく)・部曲将(ぶきょく・しょう)です。さらに曲が5つあつまると部になり1000名で校尉(こうい)、司馬(しば)、校督(こうとく)が指揮し、部が5つ集まると、5000名で軍となり軍師(ぐんし)が置かれます。
隊、(屯)をビジュアルで見てみよう
では、実際に兵士が隊で配置した様子をビジュアルで見てみましょう。記録によれば、隊は、横に16・2メートル、縦に7・2メートルの横陣です。おお、横陣!最近、キングダムでも馬南慈(ばなんじ)が横陣を組んでいましたが、隊も基本の形は横陣のようですね。さて、ビジュアルを見ていると、不思議な事に気が付きませんか?そう兵士より、伍長、伍長より什長、什長より伯長が後方にいますよね・・その理由は一体なんなのでしょう?
指揮官が前線に出ると、討ち取られたら部隊が混乱するから?
確かに、それもありますが、それ以上に兵士が逃亡するのを監視する為です。ビジュアルでは見えませんが、伯長の後ろには、部曲将、校尉、司馬、軍師のように、さらに上位の司令官がいて、それぞれが下位を監視していました。逆にいえば、そうしないと逃げてしまう程に、当時の兵士の士気は、高いモノではなかったという証明なのです。農民から徴兵されたり、お金で集めてくる兵士はやはりイザとなると頼りにならないモノだったのかも知れません。
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血も涙もない曹操の歩戦令・・
覇王、曹操(そうそう)が取り決めた軍事マニュアルである歩戦令には、血も涙も無い以下のような文言が刻まれています。
「兵士の中で進まないものがあれば、伍長がこれを殺し、伍長の中で、進まない者があれば、什長がこれを殺し、什長の中で進まない者があれば、都伯(伯長)がこれを殺す事。戦闘を監督する部曲の将校は、刀を抜いて後方において監察し、命令に従わない者を斬れ!」
部曲の役職の中には最初から逃亡する味方を斬る役割があったが興味深いです。つまり、部曲辺りからは、すでに職業軍人か、ベテランの猛者であり、それ以下は、百姓からの成りあがりで、まだ覚悟が据わっておらず戦況次第では逃げてしまう事があったのでしょう。
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三国志ライターkawausoの独り言
また、当時の歩兵は、許可がない限り走る事が許されませんでした。走ると、規定された陣形が崩れて力が減少するからです。もちろん、勝手に後ろに下がったり、隊を外れるのもダメで、見られたら、上官に問答無用で斬殺される恐れもありました。しかし、窮地に陥っていても、走ってはならないのでは、その恐怖は相当なものでしょうね。もちろん、敵も歩兵は走ってこないのですが、ジリジリ近づいてくるのを歩いて応戦しないといけないのは結構な恐怖ではないでしょうか?
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