三国志の戦争には、必ず勝者と敗者が存在します。勝てば褒美も出世も望めますが、敗北してしまったら目も当てられません。では、具体的に戦争に敗れてしまった将軍は、どうなるのでしょうか?この記事で解説してみましょう。
敗北は、利を失うと敗北に分けられる
三国志の時代の敗戦は、「利を失う」と「敗北」に分類されました。もちろん、利を失うが軽く、敗北が重い事になります。まず、利を失うとは敗れはしたけど、そこまで大きな損害ではない場合で、例えば、西暦253年に東輿の戦いで魏軍が敗北した時には、司令官であった諸葛誕(しょかつたん)が責任を取らされ、最前線の楊州の諸軍司令官から降格されて、後方の予州の諸軍司令官へと転任させられました。こちらは、まだ軽い方であり、再起のチャンスがあると言えます。
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戦争に敗北した場合
敗北して本国に戻った場合には、最高で死刑、官職を剥奪して平民に落す軍権を奪うなどの厳しい処分が行われました。虚偽の報告をして、諸葛亮(しょかつりょう)を北伐から退却させた李厳(りげん)などは、庶民に落されるという処分を受けています。
さらに多くの場合、敗北時には家族も連帯責任とされましたから、敵に降伏した将軍は、家族も丸ごと投降するという事が行われました。魏などでは、こうした家族丸ごとの投降を防ぐために、軍権を握る者は、その一族を魏の帝都、鄴や洛陽に預ける事が行われました。
馬騰(ばとう)が関中に息子の馬超(ばちょう)を残し、一族を率いて鄴に住みついたのも、私達の一族は魏に叛きませんという意思表示だったのです。もっとも馬騰の意思表示は息子の馬超が叛いた事で、仇になり、百名以上の馬一族が報復で殺害されてしまいます。
西暦222年の夷陵の戦いでは、蜀の黄権(こうけん)が呉兵に阻まれて退却できず、国境を越えて魏に投降した事件がありましたが、黄権の家族を厳罰に処すべきと主張する有司(司法警察)に対して、劉備は、黄権が投降したのは朕の責任で黄権の本意ではないとして連座には及ばないという判断を下したケースもあります。
ズルい?王族や皇族は例外だった
もっとも、戦争に敗北した場合でも、その将軍が皇族や王族に属していれば軍権を取り上げるような事はあっても、爵位は剥奪されず助命もされました。これは、もちろん、将来に王や天子になる人材を殺すわけにはいかないからです。西暦228年の石亭の戦いで、曹休(そうきゅう)は呉に敗北しましたが、皇族であるという理由で処分されませんでした。
しかし、プライドが高い曹休は、敗戦を気に病んで病を発してしまい、まもなく病死してしまいました。死刑は行き過ぎでも、何らかの処分を下した方が曹休は死なないで、カンバック出来たかも知れませんね。
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敗北の特例措置 100日ルール
ですが、敗北となったら、官爵を剥がれ家族もろとも最悪死刑では、例えば、籠城している将軍などは、気持ちが折れ降伏する恐れがありました。そこで魏には、特例措置として、籠城して100日頑張り、その間に援軍が来なかった場合には、家族が連座の対象にはならないという決まりがありました。これならば最悪でも、家族の連座を阻止する為に、最悪100日は守城の将軍は粘るだろうという目算があったようです。
三国志ライターkawausoの独り言
三国志の戦争においての敗北について、紹介してみました。「利を失う」と「敗北」の違い、罪を問われない王族と皇族などを書いてみました。戦争の勝敗は国家の危急存亡の大事ですから、厳罰を課しつつも、あまりに厳罰を規定すると、抵抗せずに敵に寝返る恐れもある事から、籠城100日ルールなどを作って、家族を連座から除外し、戦闘意欲が喪失するのを阻止するなど、様々な創意工夫が見られますね。
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