2017年度の流行語にもなった忖度(そんたく)、相手の気持ちを汲んでその意向に合わせるという意味です。しかし、何も忖度は、2017年の日本にだけあるのではありません。
今を去る事1800年前、夷陵(いりょう)の戦いで大敗した劉備(りゅうび)も実は配下の荊州人の為に忖度していたのです。
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夷陵の戦いは関羽の仇討ちだけではなかった?
私達は夷陵の戦いと言うと、劉備が義弟関羽(かんう)の仇討ちの為に、呉との同盟を優先する、諸葛亮(しょかつりょう)や趙雲(ちょううん)の反対を押し切り、実行した無謀な戦いだと思っています。これも間違いではないのですが、実は、夷陵の戦いには別の理由もありました。それは、出身地を奪われた荊州出身者の故郷奪還の希望でした。
荊州出身者は呉が大嫌いだった その理由とは
実は、荊州出身者は、長江を渡ってすぐにも関わらず、ほとんど呉に仕えていません。古株では黄蓋(こうがい)があるだけ、後は潘濬(はんしゅん)ですが、こちらは関羽と不仲で呉に下った人で列伝が立つような荊州の人材で呉に行った人はほとんどいないのです。その大きな理由は、呉が楊州を基盤としていた事と、呉では徐州閥が形成されていて、新参の荊州人の入る余地が無かった為と言われています。
そんな荊州人の心を掴んだのが、劉備で、彼が荊州で居候していた頃に、蔡瑁(さいぼう)一派からあぶれた一定の荊州人の支持を得ていたのも、いつか劉備が荊州を支配して自分達を使うだろうという打算があったからなのです。
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荊州が呉に落され、荊州人の間に動揺が広がる
赤壁のどさくさで首尾よく南郡を得た劉備ですが、219年に関羽がコケた事で魏と呉の挟撃に会い、南郡を失陥しています。これは、荊州人に激しい動揺を与え、秭帰(しき)の豪族の文布(ぶんふ)が、呉に投降するという事件も起きていました。このような状態が続くと、荊州人を多く抱えている劉備としては、動揺を鎮める為に、荊州奪還のアクションを起こさないといけなかったのです。
夷陵の戦いに参加したのは荊州人が多い
実際に夷陵の戦いに参加した人も荊州人が多くいます。馮習(ふうしゅう:荊州南郡)傅肜(ふとう:荊州義陽郡)輔匡(ほきょう:荊州襄陽郡)廖化(りょうか:荊州襄陽郡)、馬良(ばりょう:荊州襄陽郡)龐林(ほうりん)等です。中でも廖化は、死んだという虚法を流してまで蜀に帰還した人物でした。また、進退極まって降伏した龐林ですが呉ではなく魏に投降しています。呉に投降した者も二名いますが、この二名の出身地は分かりません。
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劉備は、荊州人に忖度し、夷陵の戦いを強行した?
このように、荊州人が多く従軍しているのは、故郷を奪還したいという意志の表れとも取れます。劉備としては、どうあっても、夷陵の戦いを回避する事は出来なかったという状態にあったのではないでしょうか?
(ボスは俺達の故郷を取り返す意気地もないのか・・)
そう思われては、折角集めた荊州人の人気は地に落ちます。前述した呉に投降した、秭帰の豪族の文布ですが、その後、異民族を集めて蜀に内通した疑惑を受けて、陸遜(りくそん)の命令を受けた謝旌(しゃせい)に倒されています。南郡の失陥後、率先して下ったように見える文布も荊州人としてどうも、呉に心服してはいなかったようなのです。
劉備は敗れたとはいえ、荊州人を繋ぎとめた
惨憺たる敗北に終わった夷陵の戦いですが、以後、荊州人で、呉に走る人は出ていない事から、劉備の失敗により、荊州人は、ある程度の劉備の誠意を見て取り、劉備を見限るのを見送ったのかも知れません。
劉備の死後は、徐州人の孔明を中心に、荊州閥が形成され、蜀漢を運営していくわけですから、ここで劉備の忖度が、荊州人を繋ぎとめたのは、長い目で見ればプラスでした。
三国志ライターkawausoの独り言
こうして考えると、劉備の義弟関羽に対する思いだけで起きた戦いも、実は、自分の財産である荊州人に逃げられない為の止むなき判断だったという事になるかも知れません。もしかすると、劉備としては、少し出兵して体裁を繕い帰還するつもりが呉の陸遜の撤退作戦に出くわし連戦連勝、帰るタイミングも得られないまま、ズルズル敗戦に向かったのが真実かも知れません。
それというのも、劉備が白帝城に入った事を知った孫権が、恐れて和睦の使者を派遣すると、劉備はこれを入れて、宗瑋(そうい)と費禕(ひい)を派遣して和睦を受け入れているからです。
関羽の死に対する復讐心だけが動機なら、幾ら大敗したとはいえ、こうもあっさり、孫権からの和睦に応じるでしょうか?ひょっとして陸遜が序盤から積極的に攻勢に出ていれば、劉備はちょっと戦っただけで「今日はこの位で勘弁したらァ」と言って撤退するつもりだったりして・・
※この記事は黄巾イレギュラーズ編:出身地で分かる三国志の法則を参考にkawausoの独断と偏見を加えて執筆されています
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