そうだったの?呂蒙が後を託したのは陸遜では無かった!

2017年2月12日


 

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陸遜 呂蒙

 

孫呉においては、総司令官は周瑜(しゅうゆ)に始まり、魯粛(ろしゅく)

引き継がれて呂蒙(りょもう)にバトンタッチ、最期は陸遜(りくそん)

終わるというのが定説だと思います。

しかし、実はこれ間違っているのです、どこで間違っているのかと言うと、

呂蒙が臨終間際に後継者に指名したのは、陸遜では無かったからなのです。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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意外!呂蒙が後継者に指名したのは、あの○○だった!

呂蒙 孫権

 

西暦219年、関羽(かんう)を破り荊州南郡を奪った後、呂蒙は病が重くなります。

孫権(そんけん)は医師も祈祷師も総動員しますが、病気は平癒しません。

そこで、孫権は万が一を考えて呂蒙に聞きました。

 

「卿が起てなくなるようなら、誰を代わりにすればよいだろう」

すると呂蒙は暫く考えてから、

「朱然の胆力と実行力は有り余るほどです

愚考しますに私の後を託すに充分でしょう」

こうして、呂蒙は42年の激しい生涯を閉じました。

 

原文:權問曰 卿如不起 誰可代者 

蒙對曰 朱然膽守有餘 愚以為可任 蒙卒

朱然

 

そうです!呂蒙が後継者に指名したのは陸遜ではなく朱然(しゅぜん)だったのです。

 

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呂蒙はどうして朱然を後継者に選んだのか?

朱然

 

朱然が名将であるのは、誰もが認める事ですが、それでも陸遜を差し置いて、

呂蒙の後継者と言われると「えっ?」と思う人が多いでしょう。

しかし、それは後年の夷陵の戦いでの陸遜の大活躍が脳裏にあるからです。

西暦219年の時点では、実際の手柄は朱然の方が高い上に、

彼は孫権の学友という立場で少年時代から孫権とは竹馬の友でした。

 

呉の総司令官は、主君である孫権との意思疎通が欠かせません。

呂蒙は、その点から朱然を後継者に選んだのでしょう。

 

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どうして陸遜が後継者だと誤解されたのか?

陸遜 孫権

 

では、どうしてハッキリと史書に朱然を後継者とすると記されているにも

関わらず、後世、陸遜が呂蒙を継いだように誤解されているのでしょう?

 

それは、どうやら、呂蒙が病気で荊州を離れた時の孫権とのやり取りが

原因であるようです。

 

原文:蒙至都、權問 誰可代卿者 

蒙對曰 陸遜意思深長 才堪負重 

觀其規慮 終可大任

 

呉志、陸遜伝では、呂蒙の病が重くなり、荊州から建業に帰還した時、

孫権は「誰をそなたの代わりにすればよいか?」と聞いています。

 

注意すべきは、ここではまだ呂蒙は病床に伏す程ではない点です。

 

つまり、孫権は呂蒙に代わり、関羽にぶつけるのは誰がいいか?

と聞いているだけで呂蒙の後継者を聞いているわけではないのです。

それに対して呂蒙は「陸遜なら思慮深く、大任にも耐えられる器です」

等と答えています。

 

そして、続く文では、陸遜は無名であり関羽も警戒心を持っていないから

計略には適任だとしています。

この文面だけでも、呂蒙は自分に代わり関羽に当てる人選を陸遜としただけで

自分の後継者だと言っていない事は明らかです。

 

何より呂蒙は、この段階では自分が死ぬとは思っていないので、

後継者などという発想はないでしょう。

 

夷陵の戦いで陸遜が総大将になったのは何故?

陸遜

 

しかし、実際に西暦222年、劉備(りゅうび)が関羽の仇討ちと称して

呉に攻め込むと、孫権は総大将を陸遜として大都督、仮節に任じています。

まるで、呂蒙の遺言を反故にしたようですが、これは何故でしょうか?

 

絶対の理由ではないですが、矢張り、陸遜が江東の名士であるという事が、

大きいのではないかと考えます。

朱然は、孫権の子飼いの武将であり、孫家の重臣ではありますが、

江東社会では新参者に過ぎません。

一方の陸遜は、江東の名士であり、夷陵の戦いが呉の総力戦になると考えると

豪族層の支持を繋ぎとめたいという孫権の打算があったのでしょう。

陸遜の妻は孫策(そんさく)の娘で、それを斡旋したのは孫権です。

 

潘璋

 

とはいえ、江東の名士には文句がない人選でも、孫家の将軍達には大不評で

潘璋(はんしょう)、宋謙(そうけん)、韓当(かんとう)徐盛(じょせい)のような

古参の将は、大した実績が無い陸遜の下で働く事に大ブーイングで、学級崩壊寸前。

陸遜は孫権に与えられた剣に手を掛けて脅し、言う事を聞かせた程でした。

 

ただ、朱然は孫権に無視されたのではなく、五千人を督して先鋒を勤め、

陸遜と協力して戦ったと書かれています。

朱然が不満組に加わっていないのは、孫権に因果を含められて、

よくよく諭されたからではないかと思います。

 

西暦245年に陸遜が憤死すると、孫権の信任は朱然に集まりますが、

皮肉にも、その頃に朱然は病気に罹り、4年後に病死しました。

 

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三国志ライターkawauso独り言

kawauso 三国志

 

こうして、陸遜は呉の存亡の危機を救った事により、

結果として呂蒙の後継者としての地位を確立していったと言えます。

朱然としては可哀想な所ですが、さっぱりとした性格の彼は、

この事を気に病まなかったようです。

そんな事を気にするような人なら、夷陵でも不平組に属して陸遜に、

ブーブー言ったでしょうしね。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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