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【保存版】孫呉の歴史(208~219)を年表でザックリ紹介するよ

2018年1月11日


 

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三国志の中で一番人気なのはやっぱり劉備率いる蜀でしょう。それに比べ孫呉は三国志を初めて知った人達からすれば、蜀に比べて知名度が低く、孫権(そんけん)が打ち立てた孫呉政権の歴史を知っている人が多いとは言えないでしょう。

 

呉志(呉書)_書類

 

そこで今回は黒田レンがイマイチ知名度の低い孫呉政権の歴史を正史三国志呉書を参考にしてざっくりと紹介したいと思います。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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建安十三年(208年):イケメン周瑜大活躍・赤壁の戦い勃発

 

建安十三年(208年)。孫権の人生で最大の危機が訪れます。それは曹操(そうそう)が大軍を引き連れて荊州(けいしゅう)を攻略し、80万と言われる大軍を引き連れて孫権の領土・揚州(ようしゅう)へ向かって来た事です。孫権家臣の文官達は張昭(ちょうしょう)を筆頭に曹操へ降伏するべしと孫権を説得。

 

孔明と魯粛

 

しかし孫権はイケメン周瑜(しゅうゆ)魯粛(ろしゅく)、劉備軍の軍師・諸葛孔明(しょかつこうめい)の説得を受けて、曹操軍と戦う決意をします。孫権は周瑜を孫呉軍の総大将へ任命して出陣。

 

周瑜

 

イケメン・周瑜は赤壁の地で曹操軍80万の軍勢へ火計を行い、曹操軍の船のほとんどを燃やし尽くして撃退。こうして孫権はイケメン周瑜の活躍により最大の危機を乗り越えるのでした。

 

関連記事:【衝撃の事実!!】正史三国志の作者・陳寿は孫権が打ち立てた孫呉を皇帝として認めていなかった!?

 

 

建安十三年(208年)最大のチャンスを逃す(第一次合肥の戦い)

 

孫権は赤壁の戦いの前後に守備の薄い合肥へ10万の軍勢を率いて攻撃を開始。孫権軍は合肥城へ激しい攻撃を行いますが、陥落させることができず、曹操軍の援軍が到着するとの噂を聞いて撤退します。孫権はこの第一次合肥戦の後も何度も合肥城へ攻撃を仕掛けますが、陥落させることができませんでした。

 

孫権が第一次合肥の戦いで曹操軍の援軍を気にしないで攻撃を継続して行えば、合肥を陥落させることができたでしょう。孫権は合肥を手に入れる最後のチャンスを失ってしまうのでした。

 

波動の時代を生きた先人たちから学ぶ『ビジネス三国志

 

 

建安十四年(209年):魏の勇将・曹仁から江陵を奪う!!(江陵城の攻防戦)

 

赤壁の戦いの翌年。建安十四年(209年)。周瑜率いる孫呉軍は荊州(けいしゅう)の江陵(こうりょう)へ攻撃を開始。江陵の城を守っているのは、曹操軍きっての勇将・曹仁(そうじん)です。

 

周瑜は曹仁が守っている江陵城へ攻撃を仕掛けますが、曹仁の守りが硬く激しい攻防戦が続きます。こうして一年間江陵城で戦闘が行われた後、ついに曹仁軍が江陵城を放棄して撤退していくことになり、イケメン周瑜率いる孫呉軍は荊州の重要拠点を手にします。

 

周瑜

 

 

建安十五年(210年):孫呉のイケメン大都督・周瑜死す

 

建安十五年(210年)。孫権の元に驚くべき報告が届いてきます。その内容は孫呉のイケメン大都督・周瑜が死亡したとのことでした。孫権はこの知らせを聞いて大いに悲しみ落ち込んでしまうのでした。周瑜の後任は周瑜の親友で天下三分の計を考えた魯粛が受け継ぐことになります。

 

 

建安十九年(214年):劉備と孫権の同盟に亀裂が入る!?(荊州問題)

 

孫権は赤壁の戦いが起きる前に劉備(りゅうび)と同盟。赤壁の戦いが勃発すると孫権は周瑜に軍を任せて、ほとんど孫権軍単体で曹操軍に大勝利します。荊州は南と北に分かれており、曹操軍は荊州の北部を手に入れますが、赤壁の戦いに敗北し北へ撤退。

 

荊州の南部は曹操軍が手をつけず北に撤退してしまったため、劉表(りゅうひょう)時代に任命された太守達が独立した状態でした。劉備軍は荊州南部を攻略して勢力を拡大し、その後益州の攻略に成功します。孫権は魯粛から「劉備に荊州の南部を貸し曹操軍に対抗するのがベストでしょう」と進言を受け、劉備に荊州南部の統治を任せるのでした。

 

こうして劉備が荊州南部を手に入れ、建安十九年(214年)を迎えます。孫権は劉備が益州を手に入れたと知り、荊州の南部を返還するように求めます。しかし劉備は孫権の申し入れを拒否。孫権は劉備が申し出を拒否したことに激怒し、荊州の南部へ攻撃。劉備は孫権が武力を行使して荊州南部へ侵攻してくると、すぐに軍勢を率いて荊州南部へ。

 

こうして両軍は対峙することになり、孫権と劉備の同盟関係が、破綻の危機を迎えます。しかし周瑜の跡を継いだ魯粛は劉備と粘り強い交渉を行った結果、劉備から三つの都市を返還してもらうことに成功し、劉備との同盟関係を継続していくことにするのでした。そして孫権は荊州問題が一応の決着が着くと因縁の合肥へ向かいます。

 

 

建安十九年(214年):張遼無双炸裂!!(第二次合肥の戦い)

 

孫権は荊州問題に決着を着け合肥城へ。孫権は合肥城の守備兵が少ないことを知り、将兵と笑い合う余裕を見せていました。しかし翌朝張遼(ちょうりょう)率いる決死隊が孫権軍へ突撃。孫権軍の兵士や将軍は張遼無双に遭いバタバタやられ、孫権も建物の屋根へ逃亡する有様でした。孫権は張遼率いる決死隊が撤退すると急いで追撃しますが、一人も討ち取れず地団駄踏んで悔しがるのでした。孫権は張遼の奇襲攻撃にめげず合肥城へ攻撃しますが、陥落させることができずに撤退を宣言。

 

張遼の猛攻に泣きながら逃げる孫権

 

孫権は各軍勢ごとに撤退させますが、再び張遼率いる軍勢に襲われてしまいます。孫権の周りに居た兵士や将軍達が奮戦したおかげで、撤退に成功することになりますが、張遼一人にボコボコにされてしまうのでした。

 

張遼

 

 

三国志ライター黒田レンの独り言

 

孫権は三国時代の英雄である曹操や劉備よりも年が若く、呉の皇帝になるまでに色々な事件が多くあります。そのため孫権の歴史を知ることで、劉備や曹操の当時の状況をより深く知ることができるのではないのでしょうか。またこちらの記事は孫家の歴史の中で赤壁~関羽討伐までを記しており、いずれ関羽討伐以降の記事も書かせていただきます。

 

参考:ちくま文芸文庫 正史三国志・呉書 小南一郎訳など

 

 

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二宮の変

 

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

三國志が大好きです。オススメのマンガは曹操を描いた蒼天航路がオススメです。三國志の小説のオススメは宮城谷昌光氏が書いた三國志です。好きな食べ物はマグロ、ぶり、アジが大好きな猫です。

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