周倉(しゅうそう)と関羽はどんな関係だったの?三国志の上司と部下事情

2017年9月11日


 

※こちらの記事は「大戦乱!!三国志バトル」専用オリジナルコンテンツです。

 

三国志における有名な主従には、曹操(そうそう)夏候惇(かこうとん)

孫策(そんさく)周瑜(しゅうゆ)韓遂(かんすい)

成公英(せいこうえい)など、様々なタイプがありますが、最も有名なのは、掛け軸の題材にもなった、

関羽(かんう)周倉(しゅうそう)主従でしょう。

 

いきなりネタバレしてしまうと、周倉というのは、正史三国志には登場しない、

三国志演義でのみ登場する架空の人物です。

ところが、そんな周倉が有名なのは、この両者が民話の中にまで登場して、

息の合った上司と部下ぶりを見せているからなのです。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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元、黄巾賊だが、関羽に憧れを抱く周倉

 

周倉は、親友の裴元紹(はいげんしょう)の話によると、涼州の出身で

両腕に一千斤の怪力があり、鉄板のような分厚い胸板、髭は縮れていて

グルグルと渦を巻いているという、いかにも男くさい、ワイルドな描写がされています。

さらに、架空の人物であるのを良いことに、足の速さが赤兎馬並みとという

とんでもない超能力がある人物なのです。

 

裴元紹も周倉も、元々は黄巾賊の残党で、教祖の張角(ちょうかく)の死後は、

臥牛山(がぎゅうさん)で山賊に落ちぶれて暮らしていました。

しかし、周倉、根っからの悪党ではないらしく、黄巾賊討伐で活躍した関羽に

強い憧れを抱いており、仲間の裴元紹に、関羽がいかに凄いかを力説するという

ファンぶりを披露していたようで、二人とも

 

「いつか関羽大将の部下になりてェなあ」と夢見ながら、

極悪非道な山賊家業に精を出していました。

いや、関羽の部下になりたいなら、せめて真人間になるべきでは・・

 

五関を破った関羽と運命の出会いを果たす

 

関羽は、官渡の戦いで、顔良(がんりょう)文醜(ぶんしゅう)を斬って、

曹操(そうそう)への義理を果たし劉備(りゅうび)の元へ帰ろうとしますが、

通行手形を取り忘れていたので、魏の関所を通過できず立ち往生します。

 

普通に考えると、許に戻って手形を取り、堂々と通ればいいだけなんですが、

面倒くさいのと、劉備に会いたい一心の関羽は、職務で関羽を逮捕せざるを得ない

関所の将を正当防衛で惨殺、六将を返り討ちにし、五関を破って魏の領内を出ました。

 

その後、関羽は、一夜の宿を求めて、大金持ちの郭常という人の世話になります。

この郭常には不良息子がいて、臥牛山の裴元紹の友達でした。

たまたま、不良息子が厩に繋いでいる馬を見ると、赤毛の名馬ではありませんか

 

「へっへっへ、貧乏な旅人かと思えば、馬は良いモノに乗ってんじゃねえの」

 

こうして、不良息子は、臥牛山に飛んでいき、名馬を持っている客が自宅に

泊まっているから、明日、出発した頃を待ち受けて身ぐるみ剥ごうじゃないか!

と周倉と裴元紹に持ちかけ、二人も賛成しました。

 

しかし、いざ、待ち伏せて馬を奪おうとすると、周倉は真っ青になります。

その馬とは、関羽が持っている赤兎馬であり、馬にまたがっているのは、

夢にまでみた憧れの関羽だったのです。

 

裴元紹、周倉は道に飛び出して平伏し、

「どうか、私たちを家来にして下さーい」となったのです。

 

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関羽は、旅の途中なので周倉のみを供にする

 

普段ならば、劉備軍の兵力となる志願兵ですから、関羽も歓迎する所ですが、

生憎、これから劉備に会う所で、少人数で物資も多くはなく周倉と裴元紹と、

その手勢を全て吸収する事は出来ません。

 

「あい、分かった、では、まず周倉、お主1人を供に加えよう、

裴元紹と手下達は、落ち着いたら迎えを寄越す故、待機しておれ」

 

こうして、周倉は、関羽に選ばれて従者になりますが、

これが、親友、裴元紹と周倉の永遠の別れになります。

 

裴元紹は、馬泥棒の気質が抜けず、劉備の迎えを待って待機している途中、

たまたま、やってきた趙雲(ちょううん)の馬を盗もうとして見つかり

怒った趙雲に斬殺されてしまうのです、ひどい!

 

単刀赴会で関羽と息の合ったコンビネーションを見せる

 

周倉は、上司である関羽の思考をよく掴んでおり、

息の合った、コンビネーションプレイを見せます。

それは、呉と蜀が南郡の領有をめぐって争った、単刀赴会で発揮されました。

 

領土問題で劉備と揉めた孫権(そんけん)は、魯粛(ろしゅく)に対して、

「交渉がこじれたら関羽を殺せ」と命じます。

 

実際に、交渉は上手くいかず煮詰まると、イライラした周倉は、

「天下の土地は、徳のある者が治めるのだ、孫呉のものではない!」と怒鳴ります。

それを関羽は「無礼だぞ」と叱りつけて、周倉を下がらせました。

 

ところが、これは関羽と周倉で打ち合わせた芝居でした。

幕舎から出た周倉は、川で待機していた蜀軍の船に旗で合図を送り

「交渉決裂」を伝えます。

 

それと同じ時期に、関羽も魯粛を人質にして、孫権の刺客をけん制したので、

二人は、無事に蜀軍の船で危機を脱する事が出来たのです。

周倉が関羽の片腕として、良い仕事をしている事が分かるエピソードでしょう。

 

関羽の襄陽攻めでは、魏将、ホウ徳の小舟に船をぶつけて捕える

 

さらに、関羽が西暦219年に荊州南郡から、北上し樊城と襄陽城を包囲し

水攻めした時には、関羽軍に必死に抵抗し、小舟で襄陽城に逃げ込もうとしたホウ徳に

周倉は、軍船をぶつけて転覆させ、溺れたホウ徳を捕える事に成功しました。

 

ホウ徳は、弓の名手であり、ここで襄陽城に逃げられると厄介でしたが、

周倉は、関羽の意図をちゃんと理解してホウ徳を捕えてみせたのです。

ここでも、周倉は関羽の片腕として、関羽の手が回らない部分をしっかりと

サポートしている事が分かります。

 

民話では、関羽を出し抜こうとする狡猾な一面も・・

 

三国志演義では、尊敬する上司である関羽をどこまでもサポートし、

死ぬ時まで関羽と同じという忠義の人周倉ですが、民話では狡猾な所も見せます。

 

ある民話では、周倉の足の裏には、剛毛が3本生えていて、

これをバネ代わりにして、赤兎馬に乗る関羽よりも速く走る事が出来ました。

関羽は、「従者が主を追い越すな!」と叱りつけて、後ろに下げますが、

しばらくすると、周倉は、また調子づいて、関羽を追い越してしまいます。

 

どうやら、周倉は知った上で自分を追い越していると思った関羽は、

周倉が寝ている時に宿舎に忍び込んで、足裏の毛を一本抜いてしまうのです。

これで、足が遅くなった周倉は、以後、赤兎馬の後ろを走るようになります。

 

関羽の思いやりを尊重する周倉

 

また、別の民話では、戦場を徒歩で駆け回る周倉の苦労に同情した関羽が、

周倉の為に名馬を探しますが、その馬は一日に九百里しか走れませんでした。

一方の赤兎馬は一日に千里を走るので、一日で百里の差がつきます。

 

このままでは、差が開く一方だと考えた周倉は、九百里までは馬で走り、

残りの百里は、自分が馬を背負って走ったという事です。

そう、周倉の方が、その馬より足が速いというオチなのでした。

周倉の関羽の思いやりを無駄にしない気配りが伝わるエピソードです。

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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