劉備(りゅうび)が長沙郡(ちょうさぐん)を手に入れようとして攻め寄せた時、長沙の防衛側の武将として登場した黄忠(こうちゅう)さん。
彼が忠と義の板挟みになってハンパなことをしたために長沙城はすったもんだ。挙げ句、長沙太守(たいしゅ)の韓玄(かんげん)は部下の魏延(ぎえん)に殺されるはめに。この三国志演義の顛末では韓玄と魏延だけが悪者になっていますけど、そもそもの原因を作った黄忠さんのあいまいな態度はあれでよかったんでしょうか……。
三国志演義の問題のシーン
黄忠が板挟みになった顛末をふりかえりましょう。攻撃側の大将の関羽(かんう)と守備側の武将黄忠とが長沙城外で一騎打ちをしていた時、黄忠の馬がすっころんだために黄忠は落馬、関羽はその気になればその機に乗じて黄忠を刺し殺してしまうこともできたのですが、正々堂々の一騎打ちをしたかったようで、黄忠に馬を交換して出直して来いと言っただけでした。
長沙城に戻った黄忠は、太守(長官)の韓玄から、次は一騎打ちではなく黄忠の得意な弓矢で関羽を倒すよう指示されます。(一騎打ちでしくじったんだから、長沙防衛を第一義に考えるなら次は弓矢でやれという指示は妥当ですな。)しかし黄忠は、正々堂々の態度で臨んでくれた関羽を飛び道具で倒すなんて義に反すると考えて、上官に対する忠と関羽に対する義との板挟みになりました。悩んだ末、次の対戦の場では関羽を矢で射るまねだけして、ガチには狙わずにお茶を濁しました。
その茶番が韓玄に見抜かれて、韓玄は怒って黄忠を処刑しようとし、黄忠を助けるために魏延が韓玄を殺しました。(黄忠さんがイイカッコしようとしたために、魏延さんが主殺しの汚名を着ることになっちまいました。)まあしゃあない、黄忠はんは悪うない、みいんな韓玄がせっかちで残忍やったんが悪いんや、と、三国志演義の読者はそう思わされるような書き方になっています。
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忠と義は同列なの?
韓玄への忠と関羽への義の板挟み。それって、板挟みになるようなことかしら。優先順位って決まってないんでしょうかね。日本人の感覚からすると、個人として義を通すために主君への忠をないがしろにしちゃだめなんじゃないの、と思いますよね。
この感覚は、日本人が忠とか義とかいう言葉を理解するベースになっている「朱子学(しゅしがく)」の影響です。朱子学は、中国が中央集権体制を強化しようとしていた宋(そう)の時代にできた儒教の一派で、個人的なことをきちんとやることと国家のためのことをきちんとやることは一致するよ、という考え方です。みんなにこういうふうに考えといてもらわないと、中央集権体制の強化なんてできないので。しかし、古来の儒教の考え方はそうじゃなくて、個人的なことをきちんとやることのほうが優先でした。それが儒教本来の、当たり前の常識。
義を通すことは当たり前、それができなきゃ人でなし、そんな人でなしなら忠のことまで考える資格ない、という感覚です。
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黄忠はあれでいいんです!
三国志演義が成立したのは朱子学成立よりも後の時代なのですが、中国では今でも古来の儒教の感覚のほうが根深いのです。だから、忠と義を両方大事にしようとした黄忠将軍は真面目だけど、両立できずに忠のほうがないがしろになっちゃってもまあしゃあない、という解釈は、中国人としては当たり前なんですね。
もしあそこで忠を優先して関羽を射殺しちゃうような黄忠だったら、きっとみいんな黄忠ひとでなし、つばペッペ、って感覚だったことでしょう。黄忠のあのハンパな態度は、中国人ウケを狙うならズバリ大正解なのでした。
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三国志ライター よかミカンの独り言
個人的な節義を大切にするという、儒教の伝統的な考え方と、中央集権体制を目指すお上とのせめぎ合いというのは、大昔からありました。劉備オヤビンの愛読書の『六鞱(りくとう)』には、国を損なう六種類の悪党(六賊)のうちの四つ目として、次のようなものを挙げたうえで、殺すべき時に殺さなければならないとしています。
士、志を抗(あ)げ節を高くし以て気勢をなし、外、諸侯に交わり、
その主を重んぜざる者あれば、王の威を傷う。
(自分ばっかりエエカッコしてよその名士と交誼を結び
主君をないがしろにする者は主君の権威を損なう)
韓玄が黄忠を処断しようとしたのは、こういう発想に基づいたものだったのでしょう。
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