関羽の仇討ち、そして荊州の奪還のために出陣した劉備が、若輩の陸遜に大敗するのが「夷陵の戦い」です。今回は「三国志演義」に登場する「石兵八陣」「石陣八陣」についてお伝えしていきます。
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夷陵の戦いで諸葛亮が発案した石兵八陣で劉備は助かる
大敗した劉備を追撃する陸遜を惑わせたのが、諸葛孔明の罠でした。追撃途中の魚腹浦にたくさんの石が配置してあり、そこから出ようとした陸遜は、激しい風と山のように積み重なった石によって道に迷い追撃を諦めるのです。
これが「石兵八陣」または「石陣八陣」と呼ばれるものです。この罠のおかげで劉備は無事に白帝城に逃げ込むことに成功します。陸遜は諸葛孔明の舅である黄承彦のアドバイスによってようやくこの罠から抜け出すことができました。そして撤退します。
石兵八陣は実在したの?
諸葛孔明が発案したとされる「八陣図」ですが、あくまでも仮説です。32の小部隊から成る方陣を大将の周囲八方向に配置するものになります。敵の動きに対して臨機応変に変化できる陣形とされています。石兵八陣もその類なのでしょうが、実在するものではありません(白帝城にはその遺跡があるそうですが)。三国志演義のフィクションです。
蜀びいきの三国志演義ですから、夷陵の大戦で劉備が大敗しただけでは収まりがつかなかったのでしょう。石兵八陣を登場させ、最終的に陸遜よりも諸葛孔明の方が優れているような設定にして、蜀が劉備の失策によって数万の犠牲者を出したことから注意をそらしているのです。
夷陵の戦いではどんな陣形で戦ってたの?
夷陵の戦いは、劉備の布陣を聞いて諸葛孔明が敗北を見抜いただけでなく、魏の皇帝である曹丕(そうひ)も陣形を聞いて劉備の大敗を予言しました。
それが劉備の「長蛇の陣」です。猇亭に本陣を置いた劉備は700里に及ぶ陣を敷きました。猇亭から蜀の巫県までに築かれた陣営は40以上だったそうです。当初は敵の動きに対応できる戦術を用意していた劉備でしたが、陸遜が守りに徹したことで攻めあぐねて長期戦となり、士気が下がったところで隙ができることになります。
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正史では夷陵の戦いはどんな戦争だったの?
怒涛の勢いで進軍する劉備に対し、陸遜はまずはその勢いを殺すことを考えます。反撃のチャンスが訪れるまで、退いては守り、退いては守るのです。半年もの間ひたすら耐え抜くことで、ついに劉備の陣に隙ができます。陸遜の対応が後世の中国軍の戦略の模範となっています。
陸遜は火計をもって攻め込みました。40の陣に対して、ひとつおきの20の陣に火を放ったのです。分断された蜀軍は各個撃破され、陸遜は40以上の陣営を一気に踏みつぶしました。劉備は馬鞍山に逃げ込んで態勢を整えるものの、四方から攻められて総崩れとなり、夜陰に紛れて白帝城まで逃げました。
「三国志正史」呉書ではこのとき、徐盛や潘璋、宋謙らが孫権に対し白帝城攻めの上奏をしていますが、陸遜は反対しています。陸遜は魏の動きを読んでいたのです。陸遜の読み通り、曹丕は三方向から呉を急襲します。曹丕の目論見は外れ、陸遜らの主力はすでに撤退し、守りを固めていたのです。
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三国志ライターろひもとの独り言
単純明快に説明すると、「劉備は大敗、陸遜は諸葛孔明の策によって撤退したのではなく、魏の侵略に備えただけ」ということになります。
しかしこれだと読者は誰が主役なんだ?と混乱しますね。完全にヒーローは陸遜になっているからです。そこで三国志演義では、諸葛孔明を強引に登場させ手柄をたてさせます。赤壁の戦いで周瑜を主役の座から引きずり落としたのと同じ理屈でしょう。
三国志演義が書かれた明の時代は朱子学が主流であり、その象徴的存在である劉備や諸葛孔明はどこまでもヒーローとして民衆の尊敬を集める必要があったのです。夷陵の戦いで黄忠や張苞、関興が登場して活躍したのもそのための演出であり、フィクションになります。まあ、その演出が面白いのが三国志演義の魅力であり、三国志が人気である要因なのですが。
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