【呉の艦コレ】賀斉と呂範の軍艦デコレーションが凄い

2018年5月8日


 

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忘れられがちですが、三国志において最強の艦隊を保有していたのは()です。

呉とは長江を天然の防波堤として使用し、艦隊を繰り出して敵軍の補給を断ち、

独立を保持した中国史上最初の政権だったのです。

そんな呉では、艦隊に思い入れがあり機能度外視で外見を飾る艦デコ族がいます。

代表的な人物が(がさい)呂範(りょはん)の2名です。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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戦争に使えない?超豪華満艦飾の賀斉の軍艦

 

呂範と賀斉と言いましたが、特に賀斉は万事に派手好みで有名な人物でした。

恐らく、風采(ふうさい)もかなりあったであろう賀斉は自分の軍艦も大金を掛けて

デコレートしていたのです、デコトラならぬデコ艦です。

それが、どのような様子だったか、呉志、賀斉伝は記述します。

 

乗船には金属を彫刻して朱色を散りばめ、青い天幕に赤いカーテン、

大小の盾や矛には、花の文様を施し、弓や()、矢には最高級の素材を使い

蒙衝(もうしょう)闘艦(とうかん)の類は山のように巨大だった。

 

また、当時の船は艦首に奇怪な怪物の造形が施されるのが通例なので、

賀斉の艦隊もそうだったのでしょう。

 

いずれにせよ、万事に派手好みの賀斉の艦隊も非常に派手であり

同時に贅を凝らしていました。

もしこれで、マイ軍艦を焼かれたり砕かれたりしたら悲鳴ものですが、

賀斉は装備に贅を凝らしている割には、金銭には淡泊だったかも知れません。

 

賀斉の艦隊に度肝を抜かれ退却した魏軍

 

西暦222年、呉が蜀に攻め込まれたのを見透かして曹丕(そうひ)が三方向から攻めてきました。

合肥方面からは曹休(そうきゅう)が攻めてきたので、呉では呂範と徐盛(じょせい)が水軍を率いて向かいますが

暴風雨の為に船が転覆し、多数の被害者が出ます。

しかし、もう一つ、艦隊を率いる賀斉は新市の守りを任されていて無傷でした。

 

呉軍は意気消沈していましたが、賀斉が無事である事を頼みとして士気を維持、

やがて、賀斉の艦隊が、おもむろにやってくると、曹休は賀斉の艦隊と兵員が

豪華絢爛(ごうかけんらん)である事に圧倒されてしまい、一戦も交えずに引き返したそうです。

曹休程の勇猛な者がと思いますが、まさに賀斉の艦隊のデコデコした豪華さが

魏軍を退却させた瞬間でした。

 

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艦デコは味方の士気を高め敵を恐れさせた

 

賀斉の派手好みは、当人の性格にもよるものですが、

だからといって、武勇を誇るような性格ではありません。

度々の山越の平定により、孫権は賀斉に幌付きの豪華な馬車、

軿(へいしゃ)を与えていますが、賀斉は遠慮して乗り込もうとせず、

 

孫権は左右の人間に命じて、賀斉を抱えて無理やりに軿車に乗せて

任地に送り出したと言われています。

派手好みとは正反対に、控え目で実直な人物像が浮かび上がりますが、

そんな賀斉はどうして派手好きなのでしょうか?

 

これは豪華な装飾が兵の士気を高めたという理由があるようです。

賀斉の軍勢は、遠目から見てもそれと分かる程にパーソナルな存在で

従っている兵士も、かなり誇り高かったようです。

 

それは士気の上昇に繋がり度重なる賀斉軍の勝利を産み出した

このような事情であるようです。

   

三国志ライターkawausoの独り言

三国志ライターkawausoの独り言

 

賀斉の派手さは、元より武人としての自負心、誇りから発生しているものです。

洋の東西を問わず、武人や軍人というのは派手な装束で自分を飾りました。

近代に入って、武人が鎧を着なくなっても、明治の頃までは派手な金モールで

飾られた肋骨服(ろっこつふく)を着ていた乃木希典(のぎまれすけ)のような人もいました。

 

乃木も古武士然とした人でありましたが、正規の軍服を着用せず、

あのような目立つ衣装で戦場に立っていました。

そこにも、自らを飾り危険を顧みず士気を高めるという

軍人の思考があったと言えるのではないでしょうか?

華美な服装で自分を奮い立たせるというのは古今東西変わらない心理であるようです。

 

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