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邪馬台国最期の戦い(前編)神武東征と生駒の死闘

この記事の所要時間: 729



コーノ

 

こんにちは。

コーノヒロです。

前回は、邪馬台国(やまたいこく)を滅亡させた強大な勢力は大和朝廷だったかもしれないという説を紹介しました。

今回からは、2回に分けて、その邪馬台国を滅亡に導いた、

大和朝廷との最期の戦いの全貌に迫っていきます。よろしくお付き合いください。

 

関連記事:邪馬台国滅亡の謎に迫る!なぜ滅びたの?

関連記事:倭国 「魏志倭人伝」 から読み取る当時の日本、邪馬台国と卑弥呼を分かりやすく解説

 

 

神武東征のはじまり

 

― 神武(カムヤマト)・日向(ひゅうが)を立つ ―

 

この話の始まりは、邪馬台国女王トヨが崩御した頃。それは260年代後半と見られています。

女王を失った邪馬台国は求心力を弱めつつありました。

新たに男王が擁立されたのですが、前の二人の女王たちほどの求心力はなかったようです。

 

卑弥呼の時代から邪馬台国を中心に、まとまりを見せていた、倭国と呼ばれていた日本列島は、

再び分裂の兆しが出てきていました。

司馬炎

 

中国大陸に目を向ければ、三国時代を終わらせた「(しん)」帝国が

新たな大陸の覇者として君臨したばかりでした。

しかし、晋は以前の漢帝国のように周辺地域まで威光を見せつけることはできませんでした。

そのため、周辺地域は朝鮮半島を始め、分裂し多数の国が相争う時代に入っていました。

 

その余波は日本列島も受けていました。

日本列島も、再び倭国大乱(わこくたいらん)に突入していったのです。

 

そんな時期、九州南部の日向国を治めていた豪族の「五瀬命(イツセノミコト)」と

その弟の「神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)」は、

そんな列島内の大乱を状況を見て話しあったのでしょう。

倭国の、つまりは日本列島の行く末を危惧したのでしょうか?

話し合って出た答えは、倭国を平定するため、東征することでした。

 

さて、「五瀬命(イツセノミコト)」の弟の

神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)は後の「神武天皇」となりますが、

それは後世になってからなので、ここでは分かりやすく理解してもらうために

「カムヤマト(神武)」と呼ぶことにします。兄は「イツセ」と呼ばせてもらいます。

 

 

当時の日本の人口は?

スサノオ

 

それでは、ここでおさらいです。

この頃、日本列島は九州から関東まで、複数の国(あるいは邦)が点在していました。

中でも巨大勢力を誇ったのが邪馬台国でした。

元々、北九州を拠点に始まったのですが、卑弥呼(ひみこ)の時代か前代あたりから、

畿内の大和盆地に拠点を移していました。(と言う説の立場を取らせてもらいます。)

卑弥呼

 

そして、その強大な邪馬台国に立ち向かうべく、

カムヤマト&イツセは早速、軍勢を整え始めました。

 

 

しばらくして、軍勢が準備でき、出立に至ります。

その兵力は1000前後かとも言われています。

 

ちなみに、当時の日本列島の人口から推測して考えると、その数は妥当でしょうか?

少し考えてみます。

 

大宝律令が出された、701年の奈良時代の頃、日本列島は500万人近くと言われています。

 

そうすると、その約450年前の邪馬台国時代後期は、

鉄製農具による農作で食料増産が可能となりましたが、

人口発展期に入ったばかりだったでしょうから、より少ないと見てよいでしょう。

 

そうすると、その3分の2か、半分の250万前後と見てよいでしょうか。

その内、兵士として割り当てられそうな人数は、幾人でしょうか?

豊臣秀吉

 

ちなみに、1590年代の安土桃山時代の日本の人口は、1000万人強と言われています。

ちょうどその時代を締めくくる「関ヶ原の戦い」(1600年)があったときに、

その戦いに参加した兵士たちは、東西両軍合わせて、20万人程度でした。

 

参加しなかった兵士、地方に守備についていた兵士もたくさんいたので、それを含めると、

日本国内の兵力は、少なくとも30万人以上になるでしょう。

つまり、安土桃山時代は、日本全国1000万人の人口に対し、30万人の兵数という割合です。

 

ただ、ここで、兵数はもっと多かったとも考えられるでしょうが、兵器も少なく、

食料生産もそれほど多くないはずの古代には兵数ももっと少ないと見てよいでしょうから、

それに合わせるため、少なめの割合を参考にします。

 

すると、邪馬台国時代には、日本全国300万人に対しては、

9万人前後の兵数が存在したことになるのでしょうか。

これは、当然、日本全国を合わせての数なので、その内、畿内地域にいたとされる、

とくに国内最大勢力の邪馬台国軍の兵力を推測すると、

4分の1から3分の1の、2〜3万人だったと考えてよいのではないでしょうか。

最大勢力とはいえ、国内の半数を占めていたとは考えられず、

1万人程度だと少ないと感じましたので、これは筆者の個人的推測です。

 

そして、もちろん畿内には、邪馬台国以外の勢力もあったでしょうから、

その兵士は1万人程度はいたかもしれません。

 

さらに、他地域では、西は九州から東は関東までに、兵士たちは点在していたでしょうから、

残り人数を割り当てていくと、主要地域に数千人〜1万人ずついたかもしれません。

例えば、関東に1万、東海に1万、瀬戸内海地域に1万強、出雲地域に数千、

四国南部にも数千か、九州あたりに1万強かと推測してみました。

 

つまり、九州には1万人強の兵士がいて、

そのうち、日向にいたカムヤマト&イツセ軍の兵力を考えると、

2000〜3000人くらいはいても良さそうです。

ただ、そのうち遠征に参加した

のは、1000人〜2000人前後と考えるのは妥当だと考えられるでしょう。

 

しかし、その兵力で、畿内地域最大勢力の邪馬台国軍の軍勢を打ち破ったとは到底考えられません。

どうやって、神武軍は、邪馬台国との戦いに勝利したのでしょうか?詳しく見ていきます。

どうぞお付き合いください。

 

古代中国・超科学の世界に挑戦する HMR

HMR  

「神武東征」の経路は?

 

まず、カムヤマト&イツセ軍が、日向を立ってからの動きを見ていきます。

 

日向(高千穂(たかちほ))を出立した一行は

陸路で宇佐(豊の国[別府あたりかと考えられる])を抜け、

筑紫岡田宮(ちくしおかだのみや)(北九州沿岸)を通過しました。

このとき筑紫岡田宮で数年滞在したという説もあります。

その後、ここからは海路で、関門海峡を渡り、安芸(あき)(広島)、吉備(きび)(岡山)と、

瀬戸内海を東へ進みました。

 

大阪湾に入り、白肩(しらかた)から日下(くさか)にかけての入江あたりから上陸しました。

(「白肩」は現在の大阪の「枚方」です。当時ここまで海浜になっていたのです。

「日下」は東大阪市日下町あたり。)

カムヤマト&イツセの侵攻ルート(おおまか)

 

そして、ここまでで、十数年かかっているというのです。

しかし、これは長すぎると言われる説もあります。

そこで、数年かけて移動したとは考えてはどうでしょうか?

その間で、兵力を増強したと考えられるからです。

 

もし10数年かけての移動なら、兵士たちの士気が下がることはもちろんですが、

カムヤマトを始め、将兵の老齢化が気になるところです。

来たるべき大きな戦に備えているなら、そんな悠長な動き方はしないのではないでしょうか。

ただ、あるいは、備えていなかったとも考えられますね。

つまり、歯向かう勢力などないとカムヤマト軍は考えていたのです。

 

しかし、それはいくら何でも能天気だったと言わざる得ません。

先述にあるように、「第二次倭国大乱」とも言うべき状況に入ったからこそ、

東征を開始したですから。

やはり、数年かけて、北九州から瀬戸内海の各地の豪族たちを

仲間に引き込みながら、東征したということになるでしょうか。

 

そのような流れで、カムヤマト&イツセ軍は兵力増強しながら、

数年ほどかけて、大和盆地(奈良)方面へ入っていったのです。

そのときには、カムヤマト&イツセ軍の兵力は

1万人前後に達していたのではないでしょうか?

 

生駒(いこま)の戦い (第一次 邪馬台国Vs大和朝廷戦争)

 

生駒山までたどり着くと、そこで待ち受けていたのが、

前回にも登場しました長髄彦(ナガスネヒコ)でした。つまり、邪馬台国の軍勢です。

そこで、第一次の邪馬台国Vs大和朝廷の戦争である「生駒(いこま)の戦い」が勃発(ぼっぱつ)したのです。

 

ただし、ここで注目したいのは、ナガスネヒコは軍の総大将だったということです。

このときの邪馬台国の総帥、つまり王は別にいたのです。

 

それが饒速日命(ニギハヤヒノミコト)という人物でした。

しかも、ニギハヤヒノミコトは、ナガスネヒコの妹を妻として迎えていたというのです。

つまり、ナガスネヒコは、邪馬台国の王の外戚という立場になります。

 

古今東西、よくありがちな話になってきました。

国王や皇帝の外戚が国の権力を握るという構図であったのでしょう。

 

さて「生駒の戦い」の経過を詳しく見ていきましょう。

白肩から日下あたりの入江から上陸した、カムヤマト&イツセ軍は、

眼前に迫る生駒山を越えて、大和盆地に侵入しようと試みます。

生駒の戦い

 

しかし、すでに動きを大和盆地の邪馬台国勢力には察知されていました。

総大将ナガスネヒコの率いる邪馬台国軍は、生駒山に陣取って、

入江から上がってくるカムヤマト&イツセ軍を待ち構えていたのです。

その兵力は、邪馬台国軍の全兵力の多くを投入していたはずですから、

2万前後と考えてよいでしょう。

 

カムヤマト&イツセ軍は慣れない土地に上陸したばかりで、疲れもあったでしょう。

そもそも、兵力の面でも差は明らかでしたでしょう。

倍近くの敵勢力が、準備万端に眼前に控えていたのです。

 

さらに言えば、地形の上でも、カムヤマト&イツセ軍は生駒山の低地に位置し、

邪馬台国軍は生駒山の高地を陣取っていた訳ですから、

衝突すれば、上から攻める側が有利に決まっています。

 

 

特に弓矢で攻撃すれば、雨あられに相手方の兵を突き刺せるのです。

ある意味、一方的な暴力の状況になってしまうのです。

以上、そのようなことから戦略面でも戦術面でも邪馬台国軍に優勢な状況でした。

 

この戦いの結果は明らかでした。

先程、想像したような地獄絵図のような痛ましい結果になったのでしょうか。

 

一度戦争になれば、正義がどちらにあるかなど分からないものでしょう。

 

この戦の詳細は記録されている訳でありませんが、勝者はナガスネヒコ率いる邪馬台国軍でした。

カムヤマト&イツセ軍は、散々に負かされた上に、

兄のイツセノミコトが、弓矢による深い傷を負うことになったのです。

 

神武(カムヤマト)の兄・五瀬命(イツセノミコト)の死

 

大混乱に陥った、カムヤマト&イツセ軍は海へと逃げるしありませんでした。

舟を陸沿いに南に走らせるも、陸地は生駒山から金剛山へと続く険しい山並みとなっていて

陸へは上がることは厳しい状況でした。

ただ、さらに南へと向かうと、男之水門(をのみなと)[和歌山県和田市付近]という地域があり、

紀の川が流れていました。

 

本来なら、そこから陸へと上がれる、絶好の地形だったのですが、

そこには葛城氏(かつらぎし)という豪族の一大勢力の拠点がありました。

陸へ上がるにはそれを打たねばならず、そのため南下の一途だったのです。

結局、紀伊半島を迂回し、陸に上がることができたのは、

熊野(和歌山県新宮市あたり)においてだったのです。

その時点では、とても挽回できなくらい軍は疲弊していたでしょう。

 

しかし、何よりも、カムヤマト&イツセ軍にとっての不幸なのは、

先の戦いにおいて深傷を負っていたイツセノミコが、

熊野までの途上、紀の川の男之水門(をのみなと)で亡くなってしまったのです。

カムヤマトにとっては、心身ともに痛恨の痛手だったでしょう。

ここからは、カムヤマトが全軍の指揮を統率していくことになるのです。

 

邪馬台国最期の戦い(後編)邪馬台国滅亡と神武降臨(神武天皇)

 

兄、イツセノミコを生駒の戦いで失ったカムヤマトは、

敗残兵を率いて熊野の山奥に撤退していきます。

しかし、まだ苦難は去らず熊族と呼ばれる一団に毒矢を打たれ

多くの兵士が気絶するなど苦難は続きます。

 

ところが、撤退の途中で、ある一団の協力を得る事により

カムヤマトの軍勢は息を吹き返し再び、邪馬台国大将軍、

長髄彦と決戦を交えるのです。

そして、意外な勢力により両者の戦いには決着がつくのですが

それは、こちらから確認して下さい↓

 

邪馬台国最期の戦い(後編)邪馬台国滅亡と神武降臨(神武天皇)

 

 

三国志ライターコーノヒロの独り言

三国志ライターコーノヒロ

 

次回は、熊野に上陸してからの、カムヤマト軍の挽回の経緯について物語っていきたいと思います。

お楽しみに。

 

《参考文献》

 

◆『新訂 古事記』

(角川ソフィア文庫)

◆『出雲と大和 ― 古代国家の原像をたずねて ―』村井康彦著(岩波新書)

 

◆『「古事記」の謎 ― 神話が語る日本秘史 ―』

邦光史郎著(祥伝社黄金文庫)

 

◆『卑弥呼は狗邪国から来た』

保坂俊三 著(新人物往来社)

 

◆『日本書紀 上(全現代語訳)』

宇治谷孟 著(講談社学術文庫)

 

関連記事:【3分で分かる】卑弥呼の重臣・難升米(なしめ)とは何者なの?

関連記事:卑弥呼の謎!曹爽と卑弥呼には関係があった!?

 

日本古代史を分かりやすく解説「邪馬台国入門はじめての邪馬台国

 

コーノ・ヒロ

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福祉関係の仕事をしつつ、物書きの仕事も色々としています。

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