三国志の武器はどこが製造していた?武器を製造する考工令とは

2018年5月11日


 

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()や弓、刀、剣、矛や(ほこ)、このような武器なしには三国志は成立しません。

ところが、このような武器は、どこからやってくるのか知る人は少ないでしょう。

戦いで破った敵の武器をリサイクルは基本中の基本ですが、

武器は消耗品であり、それだけで足りる筈もありませんよね?

実は、三国志の時代には、武器を専門に制作する役所がありました。

今回は、兵士の命を守る武器を作り出した役職、考工令(こうこうれい)を紹介します。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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皇帝の武器とそれ以外で二つの部署に別れる

二刀流の劉備

 

後漢の時代、武器の制作は皇帝専用とそれ以外とに分かれていました。

皇帝用の武器は九卿(きゅうけい)少府(しょうふ)(皇室財産の管理)が担当し尚方令(しょうほうれい)が製作します。

それ以外は、同じく九卿の大僕(たいぼく)の指揮下にある考工令(こうこうれい)が製作しました。

考工令が作り出した武器は、執金吾(しつきんご)の指揮下にある武庫令(ぶこれい)が武器庫に保存し

厳重に管理する事になりました。

 

これは、後漢時代の制度ですが三国志の群雄も基本的には踏襲(とうしゅう)しています。

基本、武器は宮廷の中の武器庫で武庫令が管理していたのです。

ここから考えると、三国志の時代の武器は民間が製作していないので、

ある程度、品質が均等していたのではないかと考えられます。

 

諸葛孔明のこだわりウェポン

諸葛孔明

 

なんでも担当したがるワーカホリック孔明(こうめい)ですが、後漢以来の伝統的な

武器の製造に飽き足らず、なんと丞相府(じょうしょうふ)でも武器を製造していたようです。

蜀は、鎧にしろ武器にしろ、()よりも遥かに品質が高い事で知られますが

孔明が自ら品質をチェックしていたなら、驚くにあたりません。

 

「なんですかこれは、やりなおし!」武器が出来上がる度に

キツイダメ出しを続ける諸葛丞相の姿が目に浮かびます。

孔明

 

しかし、何から何まで自分でやってしまう孔明、これでは自分の寿命が

縮んでしまうのも仕方ないかも知れません。

 

袁術祭り

 

親から子へ武器の製造者は世襲だった

曹操と曹丕

 

孫策(そんさく)は皖城に劉勲(りゅうくん)を撃破した時に、袁術(えんじゅつ)の遺産として百工と楽団、

合わせて30000人を接収したという記録が残されています。

 

この百工の中には、武器を作り出す考工令に所属していた職工がいたと考えられます。

武器を作り出す職工には熟練が必要であり、その仕事は親から子へ子から孫へと

伝承されていったほかに、その武器制作の手伝いとして、罪人の懲役(ちょうえき)の中に

武器制作への従事があったという事です。

袁術

 

30000人という規模は堂々としたもので、まがりなりにも王朝を興した、

袁術の面目躍如たるものがあります。

ここから、考えると孫呉の武器は、袁術時代の流れを汲んだものだと

言えるのではないでしょうか?

 

工業と輸送が停滞した三国志の時代の武器の原料は?

蜀の兵士

 

しかし、戦乱の時代の武器製造には、大きな困難が伴いました。

平時と違い、国がばらばらであり、政治も軍事最優先になるので、

武器の原資になる工業力が軒並み低下していたのです。

 

そこで、群雄たちがやむなく行ったのは、各地に眠る古代の英傑たちの

墳墓(ふんぼ)(あば)く行為でした。

中国人は、死後の世界を信じたので、豪族の墓は生前の暮らしを再現し

金銀財宝や武器防具が納められる事が多かったからです。

魏には、墓暴き専門の役職、発丘中郎将(はっきちゅうろうじょう)模金校尉(もきんこうい)が置かれています。

三国志の英傑には、薄葬(はくそう)を希望する人が多いですが、

「どうせ豪華に葬ろうと暴かれるのだ」という自らの所業に対する

罪悪感と諦めがあったのでしょうね。

   

三国志ライターkawausoの独り言

三国志ライターkawausoの独り言

 

三国志の時代の武器はどこからやってくるのか?を解説しました。

武器は、専門の政府直属の工房が作成し、原料は墓暴きで調達

そういうしょっぱい武器事情が浮かび上がってきますね。

 

もっとも蜀は、巴蜀に閉じ込められた状態であり、

墓暴きをしようにも、発く墓が少なかったので国内に豊富にあった

鉱山や南方貿易で不足分を補ったと考えられます。

 

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日本古代史を分かりやすく解説「邪馬台国入門はじめての邪馬台国

 
 

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