弩や弓、刀、剣、矛や鉾、このような武器なしには三国志は成立しません。
ところが、このような武器は、どこからやってくるのか知る人は少ないでしょう。
戦いで破った敵の武器をリサイクルは基本中の基本ですが、
武器は消耗品であり、それだけで足りる筈もありませんよね?
実は、三国志の時代には、武器を専門に制作する役所がありました。
今回は、兵士の命を守る武器を作り出した役職、考工令を紹介します。
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皇帝の武器とそれ以外で二つの部署に別れる
後漢の時代、武器の制作は皇帝専用とそれ以外とに分かれていました。
皇帝用の武器は九卿の少府(皇室財産の管理)が担当し尚方令が製作します。
それ以外は、同じく九卿の大僕の指揮下にある考工令が製作しました。
考工令が作り出した武器は、執金吾の指揮下にある武庫令が武器庫に保存し
厳重に管理する事になりました。
これは、後漢時代の制度ですが三国志の群雄も基本的には踏襲しています。
基本、武器は宮廷の中の武器庫で武庫令が管理していたのです。
ここから考えると、三国志の時代の武器は民間が製作していないので、
ある程度、品質が均等していたのではないかと考えられます。
諸葛孔明のこだわりウェポン
なんでも担当したがるワーカホリック孔明ですが、後漢以来の伝統的な
武器の製造に飽き足らず、なんと丞相府でも武器を製造していたようです。
蜀は、鎧にしろ武器にしろ、魏よりも遥かに品質が高い事で知られますが
孔明が自ら品質をチェックしていたなら、驚くにあたりません。
「なんですかこれは、やりなおし!」武器が出来上がる度に
キツイダメ出しを続ける諸葛丞相の姿が目に浮かびます。
しかし、何から何まで自分でやってしまう孔明、これでは自分の寿命が
縮んでしまうのも仕方ないかも知れません。
親から子へ武器の製造者は世襲だった
孫策は皖城に劉勲を撃破した時に、袁術の遺産として百工と楽団、
合わせて30000人を接収したという記録が残されています。
この百工の中には、武器を作り出す考工令に所属していた職工がいたと考えられます。
武器を作り出す職工には熟練が必要であり、その仕事は親から子へ子から孫へと
伝承されていったほかに、その武器制作の手伝いとして、罪人の懲役の中に
武器制作への従事があったという事です。
30000人という規模は堂々としたもので、まがりなりにも王朝を興した、
袁術の面目躍如たるものがあります。
ここから、考えると孫呉の武器は、袁術時代の流れを汲んだものだと
言えるのではないでしょうか?
工業と輸送が停滞した三国志の時代の武器の原料は?
しかし、戦乱の時代の武器製造には、大きな困難が伴いました。
平時と違い、国がばらばらであり、政治も軍事最優先になるので、
武器の原資になる工業力が軒並み低下していたのです。
そこで、群雄たちがやむなく行ったのは、各地に眠る古代の英傑たちの
墳墓を発く行為でした。
中国人は、死後の世界を信じたので、豪族の墓は生前の暮らしを再現し
金銀財宝や武器防具が納められる事が多かったからです。
魏には、墓暴き専門の役職、発丘中郎将や模金校尉が置かれています。
三国志の英傑には、薄葬を希望する人が多いですが、
「どうせ豪華に葬ろうと暴かれるのだ」という自らの所業に対する
罪悪感と諦めがあったのでしょうね。
三国志ライターkawausoの独り言
三国志の時代の武器はどこからやってくるのか?を解説しました。
武器は、専門の政府直属の工房が作成し、原料は墓暴きで調達
そういうしょっぱい武器事情が浮かび上がってきますね。
もっとも蜀は、巴蜀に閉じ込められた状態であり、
墓暴きをしようにも、発く墓が少なかったので国内に豊富にあった
鉱山や南方貿易で不足分を補ったと考えられます。
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