大河ドラマ西郷どん、5月27日は、奄美大島に流罪にされた西郷隆盛に代わり
大久保正助(利通)が吉祥院で囲碁を習い、
同じく囲碁好きな島津久光に近づくという回です。
ドラマ等では、元々、無趣味な大久保は久光に近づく為に囲碁を習い、
やがて本当に囲碁が趣味になったと言われていますが、それは嘘のようです。
西郷どん:全記事一覧はこちら
関連記事:大久保利通や西郷どんもビールを飲んだ!明治4年山口での文明開化
関連記事:大久保利通の妻はどんな人だったの?大久保満寿子に迫る
この記事の目次
17歳の大久保は囲碁が弱かった?
大久保利通は若い頃から日記をつけていました。
そこには、1848年、嘉永元年の記録に、朝、牧野喜平次、税所喜三左衛門が訪れて
一緒に碁を打った事が書かれています。
1848年は大久保17歳で、彼が久光に取り入る為に碁を習ったという事が、
嘘であるという事が分かります。
大久保の腕前ですが、牧野喜平次と三番勝負をして負けたとあります。
それきりで取りやめたとあるので、これは三連敗ではないでしょうか?
あまりに腕前に差があるので、それ以上、碁を打たなかった、、
そうだとすると、大久保は囲碁は好きでも下手だったのでしょう。
吉祥院の住職と碁を打ち久光とのパイプを作る
島津斉彬が死去し、西郷どんが安政の大獄に連座して奄美に流されると、
薩摩藩では、島津斉興が孫の島津忠徳を補佐して親政を敷きます。
島津久光は蚊帳の外でしたが、大久保は斉興は長くなく、そうなれば
忠徳の父である久光が権力を握ると考えました。
さらに久光も趣味が囲碁であり、吉祥寺の住職と囲碁を打つと聞いた大久保は
囲碁を教えてもらいたいと言って、住職の元に通い囲碁を打ちながら、
自分なりの政治分析や薩摩藩の進路を囲碁の合間に語りました。
もちろん、住職が自分の事を久光に話す事を期待しての事です。
計画は当たり、住職は久光に大久保の考えを話し、久光は興味を持ちます。
やがて、久光から書籍を借りたいという申し出がやってくると、
大久保は、快く書籍を貸し出しつつ、本の合間に自分の政治についての考えを
書いた付箋を挟み込む事を忘れませんでした。
活字好きな久光は、付箋にも目を通して、
「下級武士の跳ねっ返りにも、なかなか目のある輩がいるな」と考え
やがて、大久保は久光の囲碁仲間として遇されるようになります。
西郷隆盛に代わり、大久保が誠忠組の主導的な地位に立つ瞬間でした。
久光と大久保の囲碁は同レベル?
当時、目上の人と囲碁を打つ時には、わざと手加減して負けるのがマナーで
お世辞負けと言われていました。今でいう接待ゴルフや接待麻雀ですね。
ところが、大久保は囲碁には真剣で、相手が久光でも手抜きしません。
それが、接待囲碁に慣れた久光には、新鮮であったようで印象に残りました。
「大久保はお世辞負けをせぬから面白い」
久光はそう言っていたそうですが、17歳の時の大久保のレベルを考えると
もしかして、二人はどっちも囲碁が下手っぴで良い勝負だったのでは
ないだろうかと思います。
囲碁も将棋も、腕前に差があると熱中出来ず面白くありませんから、
二人の囲碁レベルが合致したのは、大げさでなく日本の運命を左右する
大きな幸運だったと言えるかも知れません。
下手なのに負けず嫌いで負けると不機嫌になった大久保
久光は、大久保はお世辞負けをしない所がいいと言いましたが、
大久保は、実の所、囲碁で手加減した事は全くない負けず嫌いでした。
維新後の大久保は、囲碁に負けると露骨に不機嫌になり
囲碁の有段者だった岩倉具視は、圧倒的に勝たないように工夫して
手加減していたという話があるからです。
唯一の趣味だけに負けたくないが、レベルはとても低く下手の横好き
そうだとすると完璧主義で冷徹な大久保にも、やや人間味が見られます。
幕末ライターkawausoの独り言
大久保の息子の牧野伸顕は、少年時代の回想として、仕事に疲れた父は、
脳をリラックスさせる為に囲碁を打っていたと言っています。
なんだか余計に疲れそうですが、仕事のストレスを晴らす程に
囲碁にのめり込んだ大久保は、本当に囲碁が好きだったのですね。
西郷どん:全記事一覧はこちら
関連記事:江藤新平と大久保利通、明治時代の権力闘争