こんにちは。
日本古代史ライターのコーノヒロです。
今回からは、邪馬台国や大和朝廷にも大きな影響を与えたという、
古代出雲王国について、お話していきたいと思います。
どうかお付き合いください。
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この記事の目次
邪馬台国は出雲に支配されていた?
先回の記事、『邪馬台国の最期の戦い』でも少し触れましたが、
神武東征のとき、大和地域には出雲と関わりの深い人間が多くいたという説があるのです。
それは、出雲出身の神々を祀る神社が幾つもあるからなのです。
つまり、当時は、大和の支配権は邪馬台国でしたから、
その邪馬台国には、出雲出身の豪族や村長が数多く存在して
邪馬台国を牛耳っていたのでしょうか?
探ってみます。
その出雲に縁のある大和地域の神社というのは、
三輪山の大神神社、葛城の高鴨神社、
飛鳥の加夜奈留美命神社
宇奈堤の川俣神社などがありました。
特に注目したいのが、大和地域の桜井
(纒向遺跡。邪馬台国の宮殿があった所と推定されています)の側にある
「三輪山」です。
この山の麓に大神神社があります。
この神社に祀られているのは、「大物主神」(大国主神と同じ神。三輪山)です。
「大国主神」(以下、オオクニヌシ)と言えば、
神話と呼ばれてもいる『古事記』の「天孫降臨」の話に登場する神様です。
天照大御神(以下、アマテラス)が、邇邇芸命(以下、ニニギ)という後継者を引き連れて
天上界から地上界へやってきて、それまで地上界を治めていた、オオクニヌシに国譲りを迫り、
成功させるという話です。
その結果、オオクニヌシは隠遁地として出雲を選び、そこに退いたという話です。
そして、この話は、歴史事実に照らすと次のような説が浮かび上がります。
これは、以前の記事の『卑弥呼はどこから来たの?』で、紹介した話につながるのです。
邪馬台国vs 出雲王国
それは、邪馬台国の女王・卑弥呼が、南朝鮮の韓の国の一つから、
北九州地域の小勢力だった邪馬台国に招かれ、共立されて女王になったという話です。
そして女王となった卑弥呼は、王都として広い平野部をもつ大和に目をつけ遷都を目指します。
しかし、すでに大和地域には先住の大きな国がありました。
それが、大和地域を含め、東は信濃までとも言われる広大な領土を獲得していた
「出雲王国」だったのです。
その王として君臨していたのが、オオクニヌシでした。
おそらく、三輪山周辺を拠点にしていたことでしょう。
オオクニヌシが祭られている大神神社がある訳ですから。
交渉を何度も重ねた結果、一時は緊迫した戦争に突入する場面もありましたが、
国譲りは成功するのです。
これで、邪馬台国は出雲王国の勢力を全て支配下におさめ、
ただ、形の上では諸国連合という並立な関係ではありましたが、
実質的には広大な日本列島の半分くらい
(北九州から中国地方、四国、近畿、北陸、東海、信濃あたりまでか?)を
「邪馬台国」の王国の領土として獲得するのです。
さらに言えば、邪馬台国としては、オオクニヌシも
体よく出雲に引っ込ませることができたという形になるでしょう。
おそらく、オオクニヌシは出雲の出身だったのでしょう。
しかし、ただでは引っ込まぬのがオオクニヌシだったと考えます。
どういうことでしょうか?説明していきましょう。
日本古代史を分かりやすく解説「邪馬台国入門」
オオクニヌシの怨念? 出雲の亡霊が大和を襲う!
オオクニヌシが大和の支配権を卑弥呼の邪馬台国に明け渡し、
出雲へと隠遁しましたが、
オオクニヌシの心の中は、復讐心の炎が、燃えさかっていたというのが
実情だったのではないかと思うのです。
ただ、当時、邪馬台国女王の卑弥呼には、朝鮮半島の「韓」との縁だけでなく、
中国大陸の「魏」の後ろ盾もありましたから、
容易に手を出して、復讐できる相手ではありませんでした。
おそらく、失意のまま、オオクニヌシは亡くなったでしょう。
しかし、自身の子供たちには、その怨みを十分に聞かせた上、
自身の怨念を子孫たちの代ではらさせようとしたのではないでしょうか?
特に、卑弥呼が亡くなってしまえば、
チャンス到来と考えていたのではないかと思うのです。
その思惑は、当たったと言えるでしょうか。
卑弥呼が亡くなると、邪馬台国は、王位継承争いで乱れます。
しかし、すぐに、新たな女王の台与が即位し、
邪馬台国の統率力は息を吹き返します。
大陸の「魏」に進物を献上したことで、後ろ盾を確保し続けることができていたようです。
その状況は、十数年は続いたでしょうか。
しかし、女王・台与の死と大陸での思わぬ政変によって、状況が一変します。
その政変とは、魏が滅び司馬炎が打ち立てた「晋」(西晋)に取って代わられたことです。
魏が滅びたことで、それまで、それを後ろ盾にしていた東アジアの諸国は動揺し、
分裂する国も多かったでしょう。
倭国と呼ばれた、日本列島も然りでした。
邪馬台国の求心力が低下し、分離独立の動きも目立ちます。
王位継承を巡る争いも起きたのです。
その状況を見てほくそ笑んでいたかもしれなかったのが、
出雲に引っ込んでいた、オオクニヌシの子孫だったのではないでしょうか?
しかも、その子孫こそ、邪馬台国ラストエンペラーとなる、
ニギハヤヒだったと考えられるというのです。
邪馬台国のラストエンペラーは、出雲王国の末裔でもあった?!
邪馬台国ラストエンペラーことニギハヤヒですが、
大和の支配権を、神武天皇(カムヤマト)に禅譲した後の動きは、
未だに謎につつまれています。
しかし、ニギハヤヒの子の足跡は、
最後は、出雲の近くに落ち着いたという言い伝えがあるのです。
詳しくお話しますと、
島根県大田市に「物部神社」があるのですが、
ここは、正確には 出雲と石見の国境付近で、石見側にあたるところです。
この神社の伝承によると、
ここに、ウマシマチノミコトがやってきて、物部氏となったそうなのです。
そして、ウマシマチノミコトは、ニギハヤヒノミコトの子だと言い伝えられています。
なぜ、出雲の近くを拠点にしたのでしょうか?
元々、そこの出身だったからと考えられるのではないでしょうか?
又、奈良県大和郡山市矢田町にある、
「矢田坐久志玉比古神社」は、
ニギハヤヒに縁のある神社と伝わっています。
ここで、年に1回行われる、網掛祭では、雌竜、雄竜に見立てた綱を飾る風習があるそうです。
これは、出雲地域の風習として伝わる「荒神信仰」を連想させると言われています。
つまり、このことは、ニギハヤヒが出雲出身であることの
有力な根拠と言えるのではないでしょうか。
日本古代史ライター コーノヒロの独り言
以上のことから、ニギハヤヒが出雲王国の血を引いている可能性が高くなってきた訳ですが、
そうすると、ニギハヤヒが神武東征によって画策した野望とは、
前回、お話したこととは、別の形になるかもしれません。
それでは、次回は、ニギハヤヒの野望について再考するとともに、
出雲王国の存在の大きさについて、もう少し深く突っ込んでお話できればと思います。
お楽しみに。
(了)
【参考文献】
◆『出雲と大和 ― 古代国家の原像をたずねて ―』村井康彦著(岩波新書)
◆ 『伊勢と出雲 韓神と鉄 』岡谷公二 著 (平凡社)
◆『消えた海洋王国 吉備物部一族の正体 古代史謎解き紀行』関裕二 著(新潮文庫)
◆『新訂 古事記』
武田祐吉 訳注(角川ソフィア文庫)
◆『卑弥呼は狗邪国から来た』
保坂俊三 著(新人物往来社)
◆『日本書紀 上(全現代語訳)』
宇治谷孟 著(講談社学術文庫)
◆ 古代出雲ゼミナールⅢ〔古代文化連続講座記録集〕
山陰文化ライブラリー9 (島根県古代文化センター編 ハーベスト出版)
◆別冊宝島 CGでよみがえる古代出雲王国
「邪馬台国以前に存在した一大海洋国家の真実」(宝島社)
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