天下三分の計をはじめて三国志で計画していた魯粛。
劉備の義弟であり、曹操からその才能を愛され、現在では神様としてあがめられている関羽。二人は一騎打ちを行ったのを知っていますか。今回はこの二人の一騎打ちについて紹介しましょう。
魯粛と関羽の一騎打ちとは
魯粛が武神としてその名を知られた関羽と武力で一騎打ちをしたわけではありません。では何で一騎打ちを行ったのか。それは議論で二人は戦ったことがあるのです。いつごろ二人は議論で一騎打ちをしたのでしょうか。
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荊州問題が原因
魯粛と関羽はいつごろ一騎打ちを行ったのでしょうか。それは荊州問題で劉備と孫権がもめたころです。ではこの荊州問題とはいったい何なのでしょうか。
荊州問題とは
劉備は孫権と同盟し赤壁の戦いで曹操軍を打ち破ることに成功。その後劉備は荊州の南部を手に入れることなり、勢力を大きく拡大することに。そして劉備は劉璋が治めていた益州をゲットすることにも成功し、大勢力を手に入れることになります。しかし劉備には大きな問題がありました。
それは孫呉との荊州問題でした。孫呉は劉備が手に入れていた荊州の南部を返すように言ってきます。その理由としては「俺らが曹操を赤壁で撃破したから、君は荊州を手に入れることができただろ」と言うものでした。
劉備はこの孫呉の言い分に対して「今はまだ返せません。益州を手に入れてから返します。」と言って引き伸ばしていました。そして孫呉は劉備が益州を手に入れたことを知って「益州手に入れたんだから荊州返してくれよ」と言ってきます。劉備はこの孫呉の言い分に対して「すいません。もっと領土大きくしてから荊州を返します」と言ってくるのでした。
孫権はこの言い分に激怒して「ふざけんなボケ!!俺だってお前の言うとおり我慢してたんだ。期限になっても返してくれんなら力ずくで奪ってやるわ」と言って荊州を分捕るため出陣。こうして劉備と孫権は荊州をめぐって争うことになります。これが荊州問題でもっと細かいことを知りたい方ははじめての三国志に掲載されていますのでそちらをご参照ください。
荊州問題で二人が一騎打ち
上記で荊州の問題を説明しましたが、孫権は荊州南部を手に入れるため、軍勢を出陣させます。劉備が領有している荊州南部には関羽が守っており、孫権の軍勢を打ち払ってしまいます。そして両国は抜き差しならない状態になってしまいますが、ここで魯粛が登場します。
魯粛は軍勢を率いて関羽の軍が駐屯している場所に到着すると関羽へ会見を申し込みます。関羽は魯粛の会見を受け入れることに。魯粛は部下の反対を押し切って一人で軍勢の前に出て関羽が登場するのを待ちます。そして蜀の軍勢からも関羽が一人でやってきて魯粛と対峙。こうして二人の将軍が出揃い一騎打ちが開始されるのでした。
魯粛の攻撃に横槍が…
魯粛は関羽へ「孫権が劉備殿へ土地を貸したのは、勢力を持っていないからです。しかし現在劉備殿は大きな土地を手に入れているにもかかわらず、貸した土地を返そうとしないのはおかしくないですか。それも孫権は荊州のすべてを返せとはいっていないのです。三つの郡だけ返してくれればいいのにそれすら返さないのは筋が通らないでしょ」と先制攻撃を仕掛けます。
関羽は魯粛の発言に困ってしまいますが、ある関羽軍の兵士が「土地は人徳があるものが持つものなんだ」といって反撃。関羽はこの兵士に激怒し「お前には関係ねーだろ!!」といってその兵士を連れて行ってしまうのでした。魯粛が優勢に攻撃を進めていた所を邪魔されてしまい、両者は物別れとなってしまうのでした。そしてこの二人の一騎打ちは関羽の劣勢であり、魯粛の勝利といえるのではないのでしょうか。
三国志ライター黒田レンの独り言
魯粛と関羽が話し合ったことで両勢力は話し合いをしっかりと行い、荊州問題は一時的にですが解決することになります。関羽は魯粛に敗北してしまいましたが、全体的に見れば、敗北したとはいいがたく引き分けと見るのが公平かもしれませんね。
参考 【ちくま学芸文庫 正史三国志蜀書】など