ええっ!独裁者諸葛亮を叱りつけた部下がいた!

2018年8月7日


 

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諸葛亮

 

 

劉備(りゅうび)亡き後、劉禅(りゅうぜん)を蜀の皇帝に立てて政治の実権を握った諸葛孔明(しょかつこうめい)。劉備が皇帝に即位した後に丞相(じょうしょう))に就任し独裁的な政治を行った事が分かっています。ところが、この蜀では無双状態の孔明を面と向かって(しか)りつけた部下が存在していたのです。そんな命知らずが本当に居たのか検証してみましょう。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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諸葛亮を叱った楊顒

 

諸葛孔明を叱った男は、楊顒(ようぎょう)という人物です。楊儀の一族で、劉備に従い入蜀(にゅうしょく)巴西(はせい)太守から孔明の引きを受けて丞相府の主簿(しゅぼ)(属官)を勤めていました。しかし、仕事中毒に陥っていた孔明は主簿を信用していないようでこっそり自分でも帳簿を調べていたようです。ところがそれを楊顒が目撃していました。そこで、直ちに楊顒は諸葛亮を(いさ)めたのです。

 

 

人の仕事を取らないで自分の仕事に専念して下さい

諸葛亮

 

楊顒は、この時、ダイレクトに私の仕事を取らないで下さいと言ったわけではありません。何と、孔明相手にたとえ話をしています。これはつまり、孔明が仕事についてはかなりのワカランチーノであり、普通に仕事を取るなと説明しただけでは効果がないと考えたからではないかと思います。

 

楊顒はこれを家庭の事に例えて言いました。

 

 

「例えば、丞相の家では奴僕(ぬぼく)に畑を耕させ、()に炊事を任せ、

ニワトリには時を告げさせ、犬は番犬として盗人に備えさせ

牛には重い荷物を背負わせ、馬には遠路を走らせているとします。

それぞれが決められた仕事をこなし、効率よく働いていればこそ、

皆が満足し、枕を高くして休めるというものでしょう。

 

しかし、それぞれの仕事を主人が一人でやろうとしたらどうでしょう?

心も体も疲労困憊(ひろうこんぱい)し、おまけに何一つとして仕事は終わりません。

それは、主人の知恵が奴婢やニワトリや犬や馬に劣るからでしょうか?

いえ、そんな事はありません。

ただ、主人が自分が成すべきルールを踏み違えているのです。

ですから古来より、座して論じるのは三公、事務を行うのを士大夫と

称しているのです。

 

 

この時、諸葛亮は何かを言いたげだったのか、楊顒はそれを制してさらに言葉を続けました。

 

だから、宰相の邴吉(へいきつ)は道で行き倒れた人間の事は管轄外と構わず

牛が喘いでいる事を不吉の前兆として憂い、陳平(ちんぺい)は国家の倉に米や穀物が

幾らあるかを全く知らず、担当者にお聞きくださいと申したのです。

 

彼らは誠に自分の為すべきを知っている人だと言えるでしょう。

しかるに丞相は、帳簿の検査のような些末(さまつ)な事までご自身でやる

これは働きすぎというものですよ!」

 

かくしてとぼけようがない程に厳しく言われた孔明は楊顒に陳謝(ちんしゃ)したのです。

 

 

北伐の真実に迫る

北伐  

 

 

楊顒が死んだ時

楊顒が死んだ時の孔明

 

楊顒はその後東曹属(とうそうぞく)になりますが、時期不詳ながら孔明より先に死んだそうです。孔明は、楊顒の死を悲しみ三日に渡って泣き続けました。同時期に西曹令史賴恭(らいきょう)の子の賴広(らいこう)も亡くなったそうで、孔明は長史参軍の張裔(ちょうえい)、そして蔣琬(しょうえん)に向けた文書で「賴広に続いて楊顒も失った、これは国家にとり大きな損失だ」と書いています。こうしてみると諸葛孔明は、楊顒を高く買っていたのですね。

 

 

三国志ライターkawausoの独り言

三国志ライターkawausoの独り言

 

蜀の最高権力者である諸葛亮に物申す部下というのは、今回挙げた楊顒以外には見当たりません。いかに正論であるとはいえ上司に物申す、しかもその欠点を指摘するのはかなり勇気がいる事なので、楊顒は筋の通った人物だったのでしょう。

 

そして、その諫言には厳しさだけでなく孔明の体調を気遣う愛が感じられます。丞相になってから激務が当たり前だった孔明にとっては、自分の体調を気遣うような楊顒の発言は耳が痛くもありましたが、同時に本当に有難いと思えるものだったのでしょう。だからこそ、一言も弁解せず陳謝したのだと思います。ただ、楊顒の諫言があっても、細々した事まで自分で決済する孔明の癖は結局治らず過労死を招いてしまうのですが・・

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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