はじめての三国志では、三国志の時代以外のマイナーな時代を取り上げていきます。
歴史の知識を増やして教養を蓄えていきましょう。
栄えある第一弾は古墳時代、皆さん、古墳時代というと埴輪や仁徳天皇陵、
前方後円墳くらいしか知らないんじゃないでしょうか?
それでは、古墳時代について紹介します。
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この記事の目次
1.弥生時代から古墳時代の幕開けまで
人類が自らの生を意識するようになったばかりの旧石器時代から、
死者を弔う行為は行われていたようです。
それは死者があの世で復活することを信じる気持ちの表れであったかもしれません。
縄文時代の終わりごろになると、死体を折り曲げてひもで縛ったり、
甕に入れたりして埋葬したものが発掘されるようになります。
これは朝鮮半島からもたらされた習慣のようで、
死体には悪霊が取りついているという考えから、
悪霊を封じ込める意図があったと思われます。
時代が下って弥生時代に稲作が広まると、
畿内現在の大阪平野辺りでは広大な水田が開拓されるようになります。
朝鮮半島からもたらされた鉄の農具や灌漑工事の技術を導入し、
大規模な干拓工事が行われるようになりました。
死者を埋葬するスタイルも変化します。
溝を方形に掘って区画し、丘のように土を盛上げた
「方形墳丘墓」が多く作られるようになりました。
墳丘墓は家族単位で作られ、中央に世帯主、隣にその妻、周囲には子供たちの棺が埋葬されました。
2代目はその近くにやや小さめの墳丘墓を作るといった格差をつける習慣もあったようです。
弥生時代では、畿内地方の「方形墳丘墓」を含め、
古墳のスタイルや埋葬の仕方は地方によってさまざまに特色がありました。
北九州では青銅製の鏡や装飾品と共に死者を大きな甕に納める「甕棺」が
また山陰地方では方形に盛上げた墳丘上に石を敷き詰め四隅を尖らせた
「四隅突出型」と呼ばれる墳丘墓が多く見つかっています。
この地方は朝鮮半島との交易が盛んなため、
埋葬のスタイルも海外文化の影響を強く受けていたと考えられています。
2.大和王権の誕生と古墳時代の始まり
「魏志倭人伝」によれば、
「卑弥呼」が統治していたという「邪馬台国」の時代(3世紀前半)に、
日本国内で30の「小国」があったことが伝えられています。
弥生時代の終わりにかけて、これらの小国は互いに争いながら、
しだいにひとつの権力のもとに統一されていきました。
それを表すように、この時代の遺跡からは、敵の侵入を防ぐ環濠の跡がみられるようになり、
争いによって死傷したとみられる人骨や、武器が多く出土しています。
やがて4世紀に入ると、九州から東日本を束ねる「大和政権」が誕生します。
「大和政権」の誕生に合わせるように、「前方後円墳」と呼ばれる形の古墳が
急に全国に広まるようになり、古墳の地方性は失われていきました。
「前方後円墳」は、これまでにみられた家族墓ではなく、
ひとりの権力者のみを手厚く葬るためにつくられるのが特徴です。
共通して、内部に「竪穴式石室」を備え、割竹形の木棺に遺体が納められました。
多数の銅鏡「三角縁神獣鏡」が
副葬品として埋葬される点なども、各地の古墳で統一されたスタイルで、
中央政権の勢力が各地に及んでいることを表しています。
「前方後円墳」は単なる墳丘墓ではなく、
権力を誇示するための政治的、宗教的な意味合いを強く持っていたのです。
奈良県の「纏向遺跡」は、
日本中にあった小国を統一した連合政権「大和王権」発祥の地ではないかとみられています。
大規模な都市計画の痕跡が随所に見られ、
東海、北陸、近畿から、瀬戸、出雲、北九州の各地で作られた
祭祀用の土器類が数多く出土していることからもそれがわかります。
また、纏向遺跡にある「箸墓古墳」(墳丘長280m)や、
その少し後に作られた大和古墳群の「西殿塚古墳」(墳丘長234m)は
出現期古墳としては最大のもので、他の古墳を大きく凌駕する規模となっています。
これらがある奈良盆地が「大和王権」の中心地であったようです。
4世紀の中ごろまでには、東日本の広い範囲が「大和王権」の政治的連合に組み込まれました。
地域の首長クラスの古墳はスタイルが統一され、西日本では「前方後円墳」、
東日本では「前方後方墳」が多くみられるようになります。
考古学上、この時代を古墳時代の幕開けとしています。
北九州あたりには、朝鮮と深い関係を持ち「大和王権」に反目する勢力があったようですが、
4世紀後半に「神功皇后」によって滅ぼされたとされています。
日本古代史を分かりやすく解説「邪馬台国入門」
3.箸墓古墳(はしぼこふん)
纏向遺跡の中にある最古級の「前方後円墳」。
墳丘長は約280m、高さ30mとちょっとした山ほどの大きさがあります。
「卑弥呼」の墓とする説もありますが、「卑弥呼」が亡くなったのは
3世紀中ごろ(248年といわれている)なのに対し、
「箸墓古墳」が作られたのは3世紀末から4世紀にかけてと考えられていますので、
時期にずれがあります。
また、古墳の規模やスタイルが「魏志倭人伝」の記述と異なる点などからも、
「卑弥呼」の墓ではないとする学説が有力です。
さらに「魏志倭人伝」では馬はいなかったと記録されていますが、
馬具が副葬品として見つかっていることからも、「卑弥呼」の墓ではない説を有力なものにしています。
「特殊器台」や「特殊壺」とよばれる埴輪の出土や、
後円部内に石室の埋葬施設が設けられている点など、
以降の「前方後円墳」の標準的なスタイルを有していることから、
「箸墓古墳」が古墳時代幕開けの古墳とされています。
4.古墳時代前期
(画像引用:メスリ山古墳出土大型円筒埴輪 Wikipedia)
この時代の古墳は墳丘の周りに「円筒埴輪」が
ぐるりと並べられているのが特徴ですが、古墳のサイズが巨大なだけにその数は相当なものです。
これは首長の死と共にそれに仕える者達を生きたまま埋める殉葬の風習があったのを
「あまりに残酷」として土の人形に置き換えたのが始まりとされています。
古墳の表面は川石を敷き詰めた「葺石」で覆われました。
土の斜面が雨で崩れるのを防ぐほか、見栄えを良くする効果があったと思われます。
副葬品としては、「三角縁神獣鏡」と呼ばれる青銅の鏡が多数埋葬されるのが特徴です。
「三角縁神獣鏡」は朝鮮半島から伝わった鋳造技術によって国内で生産された銅鏡です。
「卑弥呼」がの国から賜ったといわれる「画文帯神獣鏡」を模倣して
国内で鋳型を作り大量生産されたと考えられており、これまでに500個あまり発掘されています。
背面の紐を通す穴のバリが削られていないことから、
実用的な鏡というより葬祭用として作られたようです。
(紐穴のバリが残っているとすぐに紐が切れて実用的ではない)
「日本書紀」によれば、372年に「百済」の王から「倭国」の王に
「七支刀」が下賜されたことが記されています。
この「七支刀」は奈良県にある「石上神宮」で現在も祀られている
前長74.8cmの鉄製の剣です。
刀身の両側に3本の枝刃がついており、実用的な剣というよりは
祭司的なものとして使われたと思われます。
この時代、「百済」は鉄資源をめぐって「高句麗」と争いを続けていました。
同じく「倭国」も鉄資源を求め朝鮮半島の「任那」と関係をもっており、
「百済」としては「高句麗」との戦いを有利に進めるために
「倭国」を味方につけておく外交的な狙いがあったと思われます。
5.三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)
(画像引用:蟹沢古墳出土三角縁同向式神獣鏡 Wikipedia)
前期古墳時代の古墳から多く発掘される青銅の鏡で、直径20センチほどの大きさがあり、
背面に神獣が鋳込まれ、その周囲を銘文が取り囲んでいます。
鏡の断面を見ると縁が三角形状になっていることから、この名前が付けられました。
発掘される鏡の鏡面は錆びていて、すでに鏡としての機能は失われています。
これまでに540面以上も発掘されており、未発掘のものを含めると1000面はあるようです。
「三角縁神獣鏡」は「卑弥呼」が「魏」の国から賜った銅鏡とする説もありますが、
「三角縁神獣鏡」は中国からは1枚も出土してなく、国内でのみ発掘されていることから、
国内で大量生産されたものとする考えが有力になっています。
「卑弥呼」が「魏」から下賜された銅鏡は
「画文帯神獣鏡」ではないかとする見方が有力で
事実、「画文帯神獣鏡」は1枚だけが石棺の中に被葬者と共に納められるのに対し、
「三角縁神獣鏡」は石棺の外に数多く並べられていることからも、
「三角縁神獣鏡」は扱いが格下であったことが伺えます。
6.古墳時代中期
世紀末から5世紀の終わりにかけて、
「大和王権」の権力は最大期となり古墳のサイズも巨大化しました。
現在の大阪平野南部に残る「誉田山古墳」(応神天皇陵:墳丘長420m)や
「大仙陵古墳古墳」(仁徳天皇陵):墳丘長525m)は世界的に見ても最大クラスの墓です。
「誉田山古墳」からは、クジラ、イカ、タコ、サメ、フグなど
魚型の埴輪が多く出土しているのが特徴です。理由は諸説ありますがよくわかっていません。
7.大仙陵古墳(仁徳天皇陵)
大阪府堺市の「百舌鳥古墳群」の中にあり、
日本最大の墳丘長(525m)を誇る「前方後円墳」です
。宮内庁により第16代仁徳天皇の墓とされています。
しかし、宮内庁が発掘調査を許可していないためそれを確認することが不可能で、
学術的に大仙陵古墳を「仁徳天皇陵」と呼ぶことはできません。
江戸時代の文献は、墳丘の斜面が一面の葺石で覆われ、
墳頂部分に埴輪が並べられていたことを記しています。
また、明治時代の調査では、副葬品として鉄製の甲冑や、
朝鮮半島由来とみられる太刀、銅鏡が発掘されています。
8.任那(みまな)-朝鮮半島との交易
紀元前1世紀から紀元後7世紀にかけて朝鮮島半島は
「三国時代」と呼ばれ、「高句麗」、「百済」、「新羅」の三国が支配していました。
また、3世紀から6世紀中ごろ半島の南部に「加羅諸国」と呼ばれる小国家群がありました。
「任那」は「加羅諸国」のさらに南方、5世紀から6世紀にかけて存在した地域です。
「任那」と「加羅」は「新羅」の侵略を受け、562年以前に滅ぼされてしまっています。
「任那」地方では紀元前4世紀から3世紀の弥生式土器が多数発掘されており、
この地が「みまな」と呼ばれる前から、倭人が海を渡って進出していたことがわかっています。
また、5世紀後半から6世紀になると朝鮮半島の南西部で13の「前方後円墳」が確認されており、
「大和王権」の勢力がこの地まで及んでいたことが伺えます。
「任那」は「大和王権」がその権力を維持するために、鉄資源を確保する重要な地域でした。
「日本書紀」には、この地に「任那日本府」が
「大和王権」の出先機関としておかれていたことが記されています。
鉄資源を獲得する見返りに、日本からはヒスイの勾玉が輸出されていました。
朝鮮半島にはヒスイを産する鉱山はなく、
日本でも糸魚川流域の限られた地域でしか産出されないことから、
鉄に相対する価値を持つものとして交易が行われていたのです。
9.古墳時代後期
5世紀後半になると、巨大な「前方後円墳」はあまり作られなくなり、
地方で小規模な円墳の集合が目立つようになります。
またそれまで朝鮮半島南部の「任那」を鉄資源輸入の拠点として、
「百済」との友好関係を築いてきましたが、「百済」が「高句麗」に抑えられ
勢力を弱めてきたことから、「大和王権」の朝鮮半島での地位も低下しました。
6世紀に入って、国内で砂鉄から鉄を精製することが可能になると、
鉄資源を海外に求める理由もなくなり、
「大和王権」と朝鮮半島の外交関係は急速に消極的なものとなっていきます。
10.白村江(はくそんこう)の戦い
7世紀中ごろの「百済」は度重なる干ばつ(654年、657年)に襲われ国力が疲弊していました。
この機会をとらえ「唐」(中国王朝)が「百済」を攻略する準備を整えていることが
「倭国」に伝えられます。
「倭国」は「唐」と「百済」の両国と友好関係を築いていたため、
どちらに味方するかの選択を迫られました。
660年、ついに「百済」が「唐」と「新羅」の連合軍に滅ぼされます。
「倭国」は「百済」を救援するため、
663年朝鮮半島の白村江での戦いに参戦しますが敗戦、
朝鮮半島からの撤退を余儀なくされます。
「唐」と「新羅」の連合軍はまた「高句麗」にも侵攻し、668年これを滅ぼします。
676年、朝鮮半島は「新羅」によって統一されました。
白村江の大敗により、「倭国」は朝鮮半島におけるすべての領地と権利を失いました。
また「新羅」など海外列強に侵略される危険性が再認識され、
「唐」との友好関係を樹立し、天皇を中心とした「中央集権国家」を建設することが
急務の政策となっていきます。
「倭国」は「日本」に名前を変え、新しい国家として生まれ変わることになるのです。
11.古墳時代の終焉
646年、「天智天皇」によって「薄葬令」が規定されます。
これは「唐」の故事に基づいたもので、身分によって作ってよい墓を規定し
天皇の墓にかける時間も7日以内に制限されました。
また、人馬を生きたまま埋葬する「殉葬」も禁止されました。
これによって、「前方後円墳」に代表される巨大墳丘墓の築造はなくなり、
古墳時代は終焉を迎えたのです。
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