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潼関の戦いの舞台関中はどんな土地?

2018年9月12日


 

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関中

 

西暦211年、馬超(ばちょう)&韓遂(かんすい)連合軍と曹操(そうそう)との間で起こった潼関(どうかん)の戦い。その舞台となった関中(かんちゅう)という土地はどんな場所なのでしょうか?涼州に近い事や異民族が多い事で生産性が低い、不毛な砂漠と思われがちですが実は(しゅう)(しん)が建国する母体になった非常に肥沃(ひよく)な土地でした。今回はイメージと違う関中について紹介いたします。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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キングダムの舞台函谷関はここにある

キングダムの舞台函谷関はここにある

 

関中というのは、州で言うと司隷(しれい)の西半分の事で、京兆尹(けいちょういん)扶風郡(ちっぷうぐん)馮翊郡(ひょうよくぐん)の事を意味しています。キングダムでの秦のホームグラウンド咸陽(かんよう)が長安の近くに存在し難攻不落で知られた函谷関(かんこくかん)もあり、別名は関西(かんさい)とも言いました。函谷関の西だから関西という事です。

 

この関中は、中国大陸でも屈指の肥沃な大地であり、周王朝も秦も、この肥沃な土地の生産力を背景に成長しました。のっぺりした平地で乾燥しているので、いかにも貧しそうですが灌漑(かんがい)さえ可能なら豊富な農作物が取れます。函谷関を閉じてしまっても、土地の生産力だけで数十万の人口を養えるとされ、またシルクロードの玄関口であるので交易も盛んであり、董卓(とうたく)が洛陽を焼いて遷都(せんと)したのも、洛陽から東を取られても、長安と関中さえ押さえてれば、十分に自活できるという打算があった為です。

 

 

 

諸葛亮から韓遂まで関中の土地を欲しがった

諸葛亮から韓遂まで関中の土地を欲しがった

 

司隷でも特に豊かだったのは、京兆尹、扶風郡、馮翊郡の3つです。ここは三輔(さんぽ)と呼ばれ、特に人口が多い肥沃な土地でしたが、この土地を求めて大暴れをしたのが、あの韓遂です。また、董卓の後を継いで好き放題した李傕と郭汜は食料が足りなくなると三輔を略奪して回っていました。

 

李傕

 

 

その為に三輔は急速に衰えてしまうのですが、司隷校尉だった鍾繇が潼関の戦いの前に逃げ散った人々を呼び戻して長安を整備しています。三輔は曹魏が建国されると、司隷から切り離され、涼州の一部が加えられて雍州になります。南に蜀漢が建国して、防衛拠点として長安が重要になったからでしょう。実際に、諸葛亮も漢帝国の旧都の長安陥落を狙うと共に、肥沃な三輔の土地を手に入れようと考えていて、五丈原の戦いでは、渭水盆地に兵士を送り込んで屯田し、長期戦に備えています。

 

魏延を使う孔明

 

 

もう一つ、司隷の端の河内郡は、当時の曹魏の都である洛陽と黄河を挟んで目と鼻の先に存在していました。ですから、西から東を制圧しようという勢力にとっては、三輔を抑えるのは、非常に重要な事であったのです。

 

 

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食料補給基地としても重要な関中

劉邦

 

山脈によって黄河の氾濫(はんらん)から守られ、隘路(あいろ)によって守るに容易な関中はその土地の肥沃さもあって、穀倉地帯として重要なポイントでした。潼関の戦いでは、10万を超えると言われる曹操軍の補給は河東郡が一手に担っていましたし、漢中攻略戦でもそうでした。

 

涼州のような、山だらけの土地を攻略するのは時間がかかるので、どうしても長期戦になり、それは膨大な食糧と兵站(へいたん)を必要とします。そうなると関中は、食料補給基地として重要になるのです。

 

左遷される劉邦

 

楚漢戦争(そかんせんそう)で、項羽(こうう)に負け続けた劉邦(りゅうほう)ですが、咸陽が陥落した時に秦の人民に寛大な対応をした事から非常に人心を得ており、関中は蕭何(しょうか)が抑えて、項羽に連戦連敗の劉邦に食糧を送り続けました。劉邦が負けても負けても、立て直し、最後には兵糧不足で息切れした項羽を撃破できたのは、この関中を抑えていたお陰なのです。

 

 

 

三国志ライターkawausoの独り言

三国志ライターkawausoの独り言

 

三国志演義だけで見ていると、どうして争奪戦が行われるかイマイチよく分からない関中ですが、実際には中国随一に肥沃な土地で、山脈によって守りやすいという美点を多く備えたポイントでもあり大抵は、戦乱で常に飲まず食わずだった群雄が欲しがったエリアでした。

 

 

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北伐の真実に迫る

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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