潼関の戦いのハイライトシーンの一つが、
韓遂と曹操が馬上で言葉を交わす交馬語のシーンです。
ここで曹操と韓遂は大昔の洛陽時代の思い出話をしますが、
二人の会話を訝しんだ馬超は猜疑心を募らせ、
それが賈詡の離間の計に引っ掛かる伏線になっています。
しかし、この交馬語、少なくとも二回あったようで、
二回目は曹操のオンステージになっていたようです。
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この記事の目次
本格的な会談は二回目以後に持ち越し
現在の首脳会談でもそうですが、友好関係が築けていない国同士の会談は
初回は簡単な意見交換に終わる場合が多いです。
簡単な雑談をして相手の様子を窺い、二回目からは本格的な話に入る
曹操と韓遂もそうだったようで、最初は30年前の洛陽の思い出話に終始し
相手の腹を探り、本格的な会談は二回目に持ち越しました。
それを馬超は親密そうな様子から韓遂の内通を疑いますが、
これは外交の駆け引きに経験がない馬超の勇み足だったのでしょう。
曹操、傾きすぎを部下に諫められる
初回の韓遂との会談は、かなり型破りな親密ぶりだったようです。
すなわち、護衛もほぼつけず、韓遂と曹操は並んで馬を歩かせて
昔話に花を咲かせたようです。
これに苦言を呈するような部下の話が魏書に出ています。
曹操が後日に再度韓遂らと会談することに決まったが
諸将が心配して言うには
「殿が韓遂と言葉を交わすなら、
今回のように軽はずみではいけません。
馬防柵を作って万が一に備えましょう」
曹操は、それに対してその通りだと思ったと書かれています。
魏書を信じると、初回の韓遂との会見はありえない程無防備であり、
馬超がこれをチャンスとして、曹操を捕らえようと考えたのも分かります。
しかし、許楮に睨まれてビビり、何も出来なかったのは
皆さん周知の通りです。
激動の時代を生きた先人たちから学ぶ『ビジネス三国志』
二度目の韓遂との交馬語は曹操オンステージだった
さて、二回目の韓遂との会見ですが、魏書によると、
一回目とは比較にならない絢爛豪華なものになっています。
曹操の周辺は馬防柵で覆われ、その中に招かれた韓遂等の一団は
恭しく一礼したと書かれています。
おまけに、秦胡(異民族)の将兵は、一目曹操を見ようと、
馬防柵の周辺に取りつき、踏み重なったそうです。
読者の皆さん、踏み重なるんですよ、ほとんどアイドル扱いです。
それを見た曹操が笑って語りかけるには、
「お前達、そんなに曹操が見たいのか?
わしもお前達と同じ人間である
目が四つあるわけでも口が二つあるわけでもない
ただ、少しばかり知恵がまわるだけぞ」
まさに曹操オンステージと化していますが、
抜け目のない曹操はフル武装した鉄騎兵五千を整列させて
十重の陣を敷かせ、その鎧兜が陽光に輝くさまは、
異民族を畏怖させるに十分だったようです。
曹操のパフォーマンスに韓遂の士気は挫かれた
二度目の会談の最初に韓遂が恭しく一礼したとあるのは、
曹操に敬意を示している事もあるでしょうが、
やはり馬超との立ち位置の違いを意味しているでしょう。
馬超は曹操に叛けば馬騰と一族が殺される事を承知で叛いた
かなりの覚悟を持っての挙兵ですが、韓遂はそうではありません。
馬超は和睦の条件として黄河の西の土地の割譲を求め、
それに対して人質を出す旨を提案して独立を求めますが
韓遂はそうでもないようです。
長い事、漢王朝に叛いてきた韓遂ですが、
独立して王朝を興す事もなく時機により老獪に立ち回ります。
どんな理由があれ、王を名乗れば帰順も許されずアウトという
原則を踏まえカードを切らないわけです。
或いは、曹操と友好を保つ事で自治権的なモノが存命中は
認められるのではないか?と考えていたのかも知れません。
それが二度目の会見でいよいよ強くなり、恭しく一礼してみせた
実は、この辺りで韓遂は、ほぼ挫けたのかも知れません。
もっとも、韓遂の甘い期待は全くの幻想でしたけど
三国志ライターkawausoの独り言
有名な賈詡の離間の計は、この後に発動される事になります。
なんだか煮え切らない韓遂に馬超は苛立ちを覚え、
元々、同床異夢であった両者の溝はさらに深まっていき
連合軍は崩壊へと向かっていくのです。
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