中国の歴史を学んでいると必ず異民族の存在にぶち当たります。犬戎や北狄、匈奴などなど、挙げればきりがないほどです。その中でも特に有名なのは五胡と称される匈奴・羯、・鮮卑・氐・羌といった5つの異民族なのではないでしょうか。
今回はその中でも鮮卑族に焦点を当ててご紹介していきたいと思います。
鮮卑族のルーツ
鮮卑族といえば中国北東部に陣取っていた異民族という印象を持っている人が多いと思います。しかし、大昔から鮮卑族がその地に存在していたというわけではありません。
春秋戦国時代から秦代、その場所には東胡と呼ばれる異民族が住んでいました。東胡は秦の始皇帝が中華統一を成し遂げた頃に全盛期を迎えます。ちょうどその頃お隣の異民族・匈奴では単于と呼ばれる首領が息子の冒頓(ぼくとつ)に殺されて代替わりするというハプニングが勃発。単于になりたての冒頓に対し、東胡の首領は「お前のパパの愛馬くれ!」と要求。なんと冒頓単于はその要求をすんなり受け入れ、千里を走るという馬を送ってきたのでした。
「コイツ、俺のことが怖いのかも…!」そう思った北胡の首領は「お前の嫁のうちの1人をくれ!」と要求。またもすんなり嫁を送ってくる冒頓単于。北胡の首領はますます調子に乗って今度は西の匈奴の領地に侵入して「この千里四方の土地、今日から俺のだから!」と宣言。
これもスルーするかと思われた冒頓単于ですが、「土地は絶対にダメェ!」とブチギレ。匈奴の軍勢は北胡に猛然と襲い掛かり、あっという間に北胡を討ち滅ぼしてしまったのでした。このとき命からがら逃げ延びた北胡の生き残りが烏桓族や鮮卑族になったと伝えられています。
くっついては離れて…を繰り返す
鮮卑族はしばらくの間匈奴にくっついていたのですが、漢との争いで匈奴の力が衰えてくると今度は漢王朝にくっつくようになりました。おそらく祖先の失敗に学んだのでしょう…。
鮮卑族の首領である大人はわざわざ洛陽の都に足を運んで貢物を献上し、王として認めてもらうことによって安定した地位を手に入れることに成功します。そして、漢王朝の手となり足となり、烏桓や南匈奴を討伐。鮮卑族は朝廷から絶大な信頼を得るようになったのでした。
ところがこの鮮卑族、困ったことに度々漢の領内に侵入して太守を殺すという事件を起こします。なついてきたかと思ったら牙を剥く…。そんな気まぐれな鮮卑族に漢王朝は悩まされ続けたのでした。
かつての匈奴を思わせるほど強大に
後漢時代にもなると鮮卑族の勢いはますます強大になり、かつての匈奴と同じかそれ以上の力を持つようになりました。漢王朝は鮮卑族が後顧の憂いになりそうだということで討伐軍を送りますが、鮮卑族の強大な軍事力を前に手も足も出ず…。
仕方が無く懐柔策として鮮卑族に王位を与えて飼いならそうとするのですが、これには鮮卑族の大人もブチギレ。「もうお前たちに飼いならされるような俺たちじゃねぇ!」といった具合に火が付いた鮮卑族の略奪行為はますます凄まじいものになってしまったのでした。
再び漢民族に朝貢するが…
勢力を拡大した鮮卑族でしたが、人口が増えすぎたために食い扶持が足りなくなってしまった上、優秀な大人が死亡。
勢いが衰えてしまった鮮卑族は後漢末期に至って再び漢王朝への朝貢を開始します。しかし、相変わらず自由な鮮卑族の皆さん。曹操に従って敵を討ち取ったかと思えば、今度は曹操に背いて烏桓の見方をしてみるなどして曹操を困らせます。
しかし、曹丕が魏の文帝として即位した頃には鮮卑族の中で内部分裂が起こり、魏のことなどそっちのけで争いを繰り広げていた模様…。しばらくの間魏には平和が訪れます。
ところが、曹叡が明帝として即位した頃に内部分裂していたはずの鮮卑族の2つの勢力が突然仲直りし、魏に攻め入ってきます。魏軍はすぐさまこの反乱を鎮圧。以後しばらく鮮卑族は大人しくなったのでした。
三国志ライターchopsticksの独り言
恭しくすり寄ってきたかと思えば突然殴ってきて「あっかんべぇ!」をしてくる鮮卑族…。なんとも扱いにくい困った子どものような存在の彼らですが、それが彼らの考えた民族として生き残る方法だったのかもしれません。
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