潼関の戦いに参加した異民族、阿貴と千万とはどんな人?

2018年9月20日


 

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阿貴

 

潼関(どうかん)の戦いには、関中軍閥(かんちゅうぐんばつ)のみならず、馬超(ばちょう)に呼応した氐族(ていぞく)も含まれています。特に興国(こうこく)氐王の阿貴(あき)と、白項(はくこう)氐王の千万(せんばん)は三国志に名前が記された氐の王でした。二人はどうして、馬超の蜂起に加わったのでしょうか?その背景と氐族の成り立ちとその後について解説します。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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氐族はどこに住んでいたのか?

氐族はどこに住んでいたのか?の地図

※地図は大雑把です

 

氐族(ていぞく)は、春秋戦国(しゅんじゅうせんごく)時代より陝西(ちんせい)省から甘粛(かんしゅく)省南部にあたる地域に暮らし自らの王を(いただ)いていた民族でした。氐とは漢民族がつけた呼び名で、彼らは自らを盍稚(がいち)と呼んでいます。しかし紀元前111年に前漢の武帝により武都郡(ぶとぐん)が置かれると氐は土地を追われ、青海湖付近に移動、山間部で暮らすようになります。ただ、すべてではなく、一部の氐は漢族と雑居して暮らすようになり漢語を解し、混血が進んでいくようになります。

 

元々、半農、反牧で機織りが得意という器用な民族でしたが、華夷秩序の色濃い漢族の間では少数派という事もあり差別を受けており常に不満を抱えているという事もありました。馬超の蜂起に呼応したのはそうした部分もあると思います。

 

 



潼関の戦いで蜂起する阿貴と千万

夏侯淵

 

氐族は一つの国家を造っているわけではなく、青氐、白氐、(ぜん)氐という部族が動物や植物の祖先神を信仰し広い地域にバラバラに存在していました。211年の潼関の戦いでは、興国氐王の阿貴と白項氐王の千万という指導者がそれぞれ万の部族を率いて馬超の蜂起に参加しています。ただ、武帝紀(ぶていき)や馬超伝、徐晃(じょこう)伝等の史書には、彼ら氐の戦いぶりは、特に示されていません。

 

戦いに敗れた後、阿貴の率いる興国氐族は追撃してきた夏侯淵(かこうえん)に滅ぼされ白項氐族の千万は移動して西南の蜀に入っていきます。ところが、ここも攻められてしまい白項氐族は土地を捨てる事なく、そのまま投降して支配を受け入れました。

 

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潼関の戦い後の氐族

潼関の戦い後の氐族

 

蜀で投降した白項氐族は全員並べられて、最前列と最後列の人々が、扶風(ふふう)美陽(びよう)に移転させられたようです。馬超の蜂起に呼応しなかった一団は、そのまま現地に留まり、その後、天水と南安へと別れていきました。しかし、氐族は漢族の郡国に組み込まれても、かならず内部に王を推戴(すいたい)しその指示に従うという習慣は頑なに守っています。これが後に五胡十六国時代に氐族が繁栄する元になります。

 

 

張魯に協力し張郃に斬られた興和氐竇茂

張魯に協力し張郃に斬られた興和氐竇茂

 

三国志の時代の氐族の記録はもう一つあります。それが漢中の張魯に従った興和氐の竇茂(とうも)でしたが張郃(ちょうこう)によって、撃破されてしまい斬られてしまいました。張魯は、このように氐族を懐柔して自分の駒として使っていたとすると亡命した馬超に兵を与えて曹操を攻撃させたのも馬超の恨みだけでなく積極的に張魯も支援した可能性もありそうです。

 

 

曹操に協力し劉備軍の呉蘭を討った陰平氐 強端

三国志のモブ

 

 

氐族は多くの部族に別れていたので、全てが反曹操というわけでもなく、陰平郡の氐王の強端(きょうたん)は、逆に曹操に協力し218年に劉備が漢中に張飛(ちょうひ)馬超(ばちょう)雷同(らいどう)呉蘭(ごらん)に2万の兵力を与えて攻め込んだ時に雷同や呉蘭の軍の前に伏兵しており、呉蘭は殺害されました。強端は、呉蘭の首を曹操に送り届けて忠誠を示しています。こちらの強端は235年に武都郡の氐王、苻双(ふそう)と共に6000人を率いて司馬懿(しばい)に帰順したそうです。

 

 

五胡十六国時代に幾つも王朝を興す氐族

秦

 

氐族は西晋が衰えて八王の乱の時代になると独立傾向を強めていき、成漢、前秦、後涼などを建国していきます。中でも、前秦の苻堅(ふけん)はほとんど華北全域を支配していき、中国を統一する勢いでしたが、383年に東晋との決戦に敗れて、衰退し、その後滅亡しています。その後580年に細々と残っていた最後の氐族国家、仇池(きゅうち)楊堅(ようけん)に滅ぼされ氐族は漢人に同化して消滅しました。

 

 

三国志ライターkawausoの独り言

三国志ライターkawausoの独り言

 

潼関の乱に呼応して蜂起した氐族について執筆してみました。多くの部族に別れていた氐族は、部族単位で関中軍閥についたり、張魯についたり、曹操についたりしていたようです。その後、五胡十六国時代に不世出の英傑、苻堅を出して、華北を統一し、あと一歩で中華統一という寸前まで生きますが東晋との戦いでやぶれ、以後は衰退し漢族に同化して消えたようです。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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