白起
韓・魏・趙・燕・斉・楚・秦といった七雄が群雄割拠していた戦国時代。そんな時代に幕を下ろしたのは秦の始皇帝でした。中国初の皇帝として中国大陸に君臨することになった始皇帝はその力を全国に示すべく、文字や貨幣の統一、万里の長城の建設などに取り組みました。しかし、彼が何よりも力を入れようと考えたのは自分のことを中国全土の人々に知ってもらうこと。自分のことを知ってもらいたいと考えた始皇帝は手始めとして中国全土を巡遊することにしたのでした。
この記事の目次
天下統一を果たした始皇帝、天下巡遊を開始
ついに念願の天下統一を果たした始皇帝ですが、世の中には「何が起こったのかよくわからない…」という民草が溢れていました。そこで、始皇帝は自分が中華の唯一の皇帝となったということを人々に知らしめるため、中華統一を果たした翌年に天下巡遊を開始しました。始皇帝はまず天地の神に自らの即位を伝える封禅の儀を行うべく現在の山東省にある泰山という神聖な山を目指して旅に出ました。
ただ、前回封禅の儀が行われたのは500年以上も前のことだったため、どうやって儀式を執り行えばよいのか誰もわからず…。結局始皇帝は我流で封禅の儀を行ったそうな。
始皇帝、2回目の巡遊で張良に暗殺されかける
始皇帝の巡遊は1度で終わらず、翌年にはすぐに2度目の巡遊に出かけていきました。しかし、この旅で始皇帝は思わぬハプニングに見舞われます。
始皇帝の一行が現在の河南省を旅していたとき、道端から突如として大きな鉄槌が飛んできたのです。その鉄槌は30kgほどあり、ぶつかってしまえばひとたまりもありません。しかし、幸いにも鉄槌は始皇帝に当たらず、別の車に当たったのでした。当然、「誰がこんなことを!」と始皇帝は怒り狂ったのですが、犯人は捕まらず…。実は、このとき始皇帝暗殺を企んだ人物は後に漢を築き上げる劉邦の軍師となる張良でした。周王室の血を受け継ぎ、韓の公族の子孫として暮らしていた張良にとっては始皇帝の存在が許せなかったのかもしれませんね。
始皇帝、項羽にライバル視されちゃう
巡遊中に危うく暗殺されるところだった始皇帝ですが、始皇帝の姿を見て良からぬことを思った人はやはりチラホラいたようです。その中でも後に劉邦と覇を争う項羽の逸話は有名です。始皇帝一行の行列を見かけた若き項羽は不遜なことに次のように嘯いたのだとか。「いつかアイツにとって代わってやる!」
始皇帝、劉邦の憧れの存在に
劉邦
実際に項羽は天下に王手をかけるまで上り詰めましたが、天下を手に入れた劉邦の方も始皇帝の行列を見て次のような言葉をこぼしたのだそう。「大丈夫というのは、やはりあのようでなければならないなぁ。」項羽とは対照的に始皇帝に尊敬のまなざしを向けた劉邦。その頃は劉邦もまさか始皇帝の立場になれるとは思ってもみなかったことでしょう。
巡遊中に崩御してしまった始皇帝
始皇帝の巡遊は結局4回にまで及びました。どんなに危ない目に遭っても各地を旅してその威光を知らしめたいと考えていたのでしょう。しかし、4回目の巡遊の最中に始皇帝は病にたおれて崩御してしまいます。始皇帝は自らの死を悟ったとき、後継者である長子・扶蘇に遺言をしたため、信頼していた趙高という宦官に託しました。始皇帝は「これで安心」と息を引き取ったのですが、実は趙高はとんでもない男で、趙高にこの遺言書を託したことで秦は滅亡の道を突き進むことになってしまったのでした…。
三国志ライターchopsticksの独り言
天下統一という偉業を果たした始皇帝でしたが、やはり統一直後は反発する者が多く、そのことに対して気をもんでいたことでしょう。そんな現状を打破すべく天下巡遊をし始めた始皇帝のアクティブさはたしかに素晴らしいものだったと思います。
しかし、巡遊に出かけたことによってかえって命を危険に晒したり、道行く人にナメられたり、更には遺言書をとんでも無い奴に渡してしまうことになったりしてしまったのではないかと思わずにいられません。もし始皇帝がもっと泰然自若として構えていられたら秦の命数はもう少し延びたのではないでしょうか…。
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