濡須口の戦いの特徴は、それが中州に造られた塢と呼ばれる砦の取り合いに終始していったという点です。
特に有名なのが、呂蒙の献策で築城された濡須塢で偃月塢とも呼ばれた塢は度々侵攻してきた魏の攻撃を跳ね返して時間切れに持ち込み、何度も濡須口を防衛するのに貢献しました。今回は、そんな塢がどんな構造であるかを解説したいと思います。
新末の反乱の頃から存在する塢
元々、塢は単に土手を意味する言葉でしたが、次第に防壁を意味するようになります。異民族に対して、国境を警備する小さな軍事拠点は塢侯と呼ばれていましたし、また、新末の動乱の時代には、流賊を避ける為に民間人が砦を築いて避難する施設が塢壁と呼ばれるようになります。
元々、中国の都市は城壁に囲まれてはいるのですが、塢はそれとは異なり当初から防衛を目的に築いている点が都市の防壁とは異なっています。その為に、一般の都市にはない工夫が城壁に施されました。
三国志の群雄の一人である董卓も長安の付近に万歳塢という城塞を造り三十年分の食糧と金銀財宝を積み込んで万が一に備えましたが、これも、外敵の多かった董卓の採用した防衛手段でした。
一族だけで籠城し、多くの防御機構がある塢
塢は防衛に特化した砦である為に、一般の都市に比べてコンパクトです。これは中に籠るのが基本的に全て戦闘員であり備蓄物資をすり減らすような余剰の人口を抱えない為でもあります。次に塢には、敵襲を察知する為の敵台や角楼という見張り台を備え、馬面と呼ばれる城壁の四隅から突き出した正方形の台座を持ちます。これは、逸早く敵襲を察知すると同時に城壁をよじ登ろうとする敵を突き落す為に整備されたものでした。
関連記事:【第三次濡須口の戦い】曹丕の火事場泥棒から起きた最期の激戦
関連記事:【濡須口の戦い功労者列伝】濡須塢を築き二度も曹操軍を撃退、呂蒙
何度も魏軍を跳ね返した濡須塢
濡須口の対岸に築城された濡須塢は、西暦216年の第二次濡須口の戦いの時に呂蒙の提言で置かれたものです。その特徴は、偃月の形をしていた事のようで偃月塢と呼ばれました。これは、双砦とも呼ばれているので、恐らく、二つの塢を築城してそれを湾曲した城壁で繋いだものだと考えていいでしょう。城壁を湾曲させる事で敵軍を城壁の深い部分まで誘い込み、弩を集中的に撃ち込む事で大打撃を与えたものと考えられます。元々、呉軍は塢を臆病者が使うモノと蔑んでいたようで呂蒙の提案は「船から降りて敵を攻撃し、危なくなったら船に逃げ込めばいい」と多くの将に反対されたようです。
しかし、孫権は呂蒙の献策を優れていると見抜き反対を抑えて築城させます。第二次濡須口の戦いで、呂蒙は、ここに万を数える強弩を備えて、臧覇、張遼が率いる数万の軍勢に矢を撃ちまくり陣形を造る時を与えず遂に退却させる事に成功させました。
第三次濡須口の戦いでは、曹仁が濡須塢に押し寄せますが、今度は朱桓が籠城して千人もの被害者を出させて退却させています。これらは、いずれも魏軍が退却を決意する決定的な勝利であり塢の力が遺憾なく発揮されたと言えるでしょう。
魏晋南北朝時代にも活用された塢
このように大軍を少数の軍勢で守り抜く事に特化した塢は、皮肉にも、永嘉の乱以後の魏晋南北朝の動乱時代により多く築かれます。この時代には、地理的な防御効果を取り込んだ山城が築かれ、華北では異民族の支配に従わない漢族が塢主を代表に防衛拠点を築き度々騎兵中心の異民族の軍勢を撃退しました。長江を越えた南朝では、豪族が中心になって塢を築いて領民を組織し自衛組織を作り上げていきます。先に紹介した董卓の万歳塢も、北魏の時代まで使われていた事が発掘調査から明らかになっています。
こちらもCHECK
-
『列子』はどんな本?永嘉の乱を生き残った奇書
続きを見る
三国志ライターkawausoの独り言
塢を活用した戦いが中心になった事で、兵力で魏に劣る呉は、長江を防壁にし中州には塢を築いて戦う様式が一般化しました。これにより三国時代の末には防御兵器が攻撃兵器を上回り、戦いは長期化して天下統一には時間がかかる事になります。
関連記事:【第二次濡須口の戦い】曹操軍オールスターが登場する大会戦
関連記事:【第一次濡須口の戦い】赤壁より人数が多い三国志史上屈指の会戦