戦国時代といえば、大地を揺るがすカッコいい騎馬隊が見所でした。ところが、それが近年、疑惑の目で見られています。すなわち、日本の馬は体高が低いポニーで武装した武者を載せて移動は出来ない、日本の武士は戦闘では馬から降りて戦っていたのであって、騎馬軍団なんか存在できない戦国映画だけのフィクションであるという説です。
でも、それって本当なんでしょうか?
実際の戦国時代の陣形を通して、リアルな戦国の騎馬軍団を考えてみます。
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大きな誤解、騎馬隊は単体で存在してはいなかった!
私達は漠然と騎馬隊を単体で存在している存在だと思い込んでいます。それは恐らく、西部劇の騎兵隊とかとイメージが混同しているのだろうと思います。しかし、現実の戦国時代では、騎馬隊は決して単体で存在していませんでした。
備と呼ばれる戦国時代の部隊配置によると、騎馬隊は22人の馬上の武士と、58人の奉公人で構成されている事が分かります。全体では80名、一人の騎馬武者につき、3人の奉公人が付く計算です。この奉公人が何をしているのかというと、槍を持って騎馬武者の周辺に立ち騎馬の足を薙刀で狙ってくる足軽を追い払う役割なのです。馬は脚が傷つけば走れないので、それを守る為に奉公人はいたのですね。
騎馬隊の役割とは
では、騎馬隊の役割とは何でしょうか?
それは、足軽の攻撃で浮足だった敵に対して、突撃や横逆を仕掛けたり敵陣を分断したり、混乱させたりする機動力を活かした役割です。この時には、騎馬兵は馬を降りる事もあれば、騎乗したまま突撃する事もありました。
一度馬が走り出してしまえば人間が徒歩で追いつく事は出来ません。兵力全体での騎兵の数は6%程度でしかなく、騎馬隊だけで戦況を覆す事は余りなかったようですが、ちゃんと役には立っていたのです。
戦国後期、騎兵は下馬する事が増えた
戦国の前期には、騎乗したまま敵に突撃する事も多かった騎兵ですが、戦国時代の後期になると下馬して奉公人と徒歩で突撃する事が増えます。その大きな理由は鉄砲の普及や槍衾の誕生でした。
騎兵は、普通の足軽より頭の位置が高いし目立つので鉄砲の格好の標的でした。映画等ですと、鉄砲は騎馬武者を狙いますが史実では馬を撃ったそうです。考えてみれば当たり前で、どんな豪傑も馬から落とせば、ただの歩兵になりますからね。
また、戦国後期の長い槍を組み合わせた槍衾は、騎馬隊の突撃を不可能にしました。これにより、主に鉄砲戦術や槍衾が盛んに使われるようになった西日本から、騎馬隊は段々と下馬して戦うようになっていきます。しかし、全く騎乗突撃が消えたわけではなく、鉄砲の脅威や槍衾が機能しない戦場では臨機応変に騎乗突撃も行っていたようです。
騎馬隊の役割の変化
日本の騎馬隊は平安時代頃までは、騎射によるものが主流でした。しかし、治承・寿永の乱の頃になると、馬ごと敵に突撃して地面に落とし首を切るという戦法が誕生します。
やがて、室町時代になると金で雇われる膨大な足軽によって戦闘が集団戦に変化騎馬隊も弓を捨てて、長巻や薙刀を標準装備して斬撃するようになります。それと同時に鞍も浅くなり、鎧も大鎧から、胴丸、当世具足と歩兵戦に適したものに変化します。これが戦国時代に入ると、発明された槍が標準装備になっていき、時代劇で登場する騎馬隊が出来上がっていく事になります。
騎馬隊は最高のエリート
戦国時代、騎馬は武士が個人個人で持っていました。もちろん、馬を養い訓練を欠かさないのは、それなりに裕福な武士にしか出来ません。食うや食わずの貧乏武士では、馬の訓練どころではないからです。そこで騎馬隊は、二、三百石取りの平侍で構成され、千石級の大身の侍が隊長を務めていました。
百石取りというのは、江戸時代でも結構な身分なので騎馬隊というのは、そもそもエリート武士の集まりなのです。当然、彼らは財力にモノを言わせて馬も鎧も飾りたてて戦場の花形として活躍する事になりました。
kawauso編集長の独り言
話をまとめますと、戦国時代にも騎兵の突撃はあったけど、槍衾や鉄砲が備えられている戦場では標的となり討ち死にするだけなので、騎馬武者は下馬して戦った。
そうでない場所では、騎乗突撃も臨機応変に行っていた。この辺りが真実に近いのではないかと思います。戦国時代に騎馬軍団は確かに存在していたのです。
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