【そうだったの?】戦国時代は地球が寒くなった為に引き起こされた


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画像:応仁の乱Wikipedia

 

戦国時代の引き金と呼ばれる応仁(おうにん)の乱、11年間も続いた戦争により京都は灰燼(かいじん)と化し室町将軍の権威は失墜(しっつい)、それにより、守護大名や守護代、

国人領主達は、将軍の命令を無視し、相互に領土を侵略しあう国盗り物語が発生するようになります。

それが戦国時代ですが、実は、その戦乱の発生には太陽活動の縮小と、相次ぐ火山爆発による地球の寒冷化があるようなのです。

 

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太陽活動の縮小による小氷期と火山爆発が同時に起きた

 

過去4500年の太陽の活動を見ると、7世紀頃に極端な太陽活動の低下がありその後、8世紀から13世紀にかけて、

現在と同じ太陽の活動が活発な時機があります。

そして、その後、15世紀から19世紀にかけて、太陽の活動が低下している時期がありこの中でも1416年から1534年の120年間が

シュペーラー極小期(ごくしょうき)と呼ばれ、特に太陽の活動が弱く、地球の気温が下がった時期にあたるようです。

 

現在でも、平均気温の低下は農作物に大きな被害を及ぼします。

もちろん、現在よりずっと生産性が低い室町時代の農業への打撃は大きいでしょう。

 

もう一つ、1440年代から1480年代にかけて、大きな火山爆発が7回も発生しました。

特に大きいのが、1452年から1453年にかけて南太平洋のバヌアツ共和国の海域で起きたクワエ火山の噴火でした。

 


 

室町時代後期にやってきた寒い夏

 

この火山爆発と、シュペーラー極小期の影響で、世界の気温は1420年代に急落し途中で急な増減はあるものの、16世紀初頭まで下落傾向が続きました。

この頃、地球の気温は年平均で1℃から0.5℃低下したそうです。

その後、1540年代に10年間程は持ち直すも16世紀末にかけて再び寒冷期になります。

 

40代以上の方には記憶に新しい1993年の米騒動は1991年に大爆発したフィリピンのピナツボ火山が吹き上げた火山灰により

地球の平均気温は、0.3から0.5℃低下した事で日本では、夏の気温が平均3℃下がり冷夏となった為だと言われます。

 

地球の平均気温が0.3から0.5℃下がると日本の夏の気温が3℃下がるのです。

これで、地球の平均気温が1℃下がれば、日本の夏の気温は10℃も下がる事になります。

もしかすると、室町時代の夏は寒い時があったかも知れません。

 

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冷夏長雨で頻発する大飢饉

 

1420年代から、冷夏・長雨を原因とする飢饉(ききん)の記録が増加していきます。

1330年代から1420年の90年間に起きた大飢饉は、1356年、1390年、1406年の3回であったのに対し、1420年から1530年のシュペーラー極小期には、

11回と4倍近くに急増しているのです。


 

室町から戦国期に増えた人口が大量の飢民を産みだした

 

室町から戦国時代は、それまで600万人で横ばいの人口が15世紀半ばには1000万人、1600年には1500万人と増加する時期にあたります。

その大きな理由は、灌漑設備(かんがいせつび)と水利管理、鉄製農具の普及、二毛作の開始、そして、家畜を利用した農耕や収穫量の多い米の輸入などでした。

 

ところが、こうして人口が増えた所で発生したのが火山爆発と太陽の極小期により生じた寒冷期だったのです。

収穫量の減少により過剰な人口は食うに困るようになりました。

内側で食糧を何とか出来ないなら、外側に食糧を求めるしかなくなります。

その中で土一揆が頻発するようになり、借金の帳消しや、食料を求めて飢えた農民達が大量に出現する事になります。

しかし室町幕府には、こうして発生した大量の飢民を何とかする手だてがなく飢民は社会問題として残されたのです。


  

 

 

飢民の発生が応仁の乱を長引かせた

 

そして1467年、管領畠山家(かんれいはたけやまけ)家督相続問題(かとくそうぞくもんだい)斯波家(しばけ)の家督相続問題、守護大名細川氏と山名氏の権力争いに、

将軍家の次期後継者問題が絡み、関東以西の守護大名が東西に分かれて戦う応仁の乱が勃発します。

 

この長引いた内乱では、両陣営とも兵力の維持に苦しみ、大量の傭兵、つまり足軽を多用した事が知られています。

この時代より、一族郎党を中核とした小規模な戦争は終わりを告げ、日本の戦争は、足軽を中核に据えた集団戦に変化していくのです。

 

さて、両陣営が引き込んできた足軽達は元々、どこにいたのでしょう?

足軽の元になった人々は食うに困って飢民になり、京都に上ってきて暴徒になったり、悪党になった可能性があるのです。

事実、乱の二十年前、1447年には、諸国から牢人が洛中に集まり暴徒や悪党と結託し文安の土一揆が発生していました。

 

彼らが主力になった足軽は、給与がない代わりに略奪を許された存在でした。

こうして飢民は、半ば公認で他所から物資を奪う戦争傭兵として、活躍の場を得る事になったのです。

皮肉な事に戦乱の弱肉強食の時代が、ある程度の富の再分配を可能にし飢民の救済に繋がったと言えるのです。

 

参考文献:世界史のなかの戦国時代〜異常気象 小氷河期が戦乱を生んだ –

田家康(日本気象予報士会東京支部長)

 

信長の組織した常備軍は社会福祉だった

 

1540年代にかけて、一時は落ち着いた寒冷期は、10年程で再び寒くなります。

この頃は、戦国時代の後期で、上杉謙信(うえすぎけんしん)武田信玄(たけだしんげん)織田信長(おだのぶなが)豊臣秀吉(とよとみひでよし)徳川家康(とくがわいえやす)の活躍した時期に重なっています。

 

その中でも織田信長は、それまで半農半士で農繁期には戦争に出なかった兵力を常備軍として編成し直し、

一年中戦える軍隊を編成した事で知られています。

しかし、それも本当は、再びやってきた寒冷期による不作で増加した飢民を野放しにして問題集団にするよりは足軽として採用し、

略奪込みで給与を払う方が被害が少ないという、一種の社会福祉だった可能性もあるのではないでしょうか?

 

参考:民族学伝承ひろいあげ辞典

 

戦国時代ライターkawauso編集長の独り言

 

ですが、もし、太陽の活動の低下による寒冷化が戦国時代の原因なら、19世紀までは寒冷化が続いていたのですから、

戦乱も続いていないといけないそういう疑問が湧きますね。

 

これを解消したのが、年貢の村請という制度なのだそうです。

つまり、それまでは個人、個人が払っていた年貢を庄屋や名主、年寄のような郷村の代表が村の責任者として一括して納める事で、

年貢納付を連帯責任にし村全体が助け合い、負担を平等に分ける事で自力救済のような過激な思想が起きにくいようにしたのです。

かくして、社会システムの変化により、路頭に迷い蜂起する農民はいなくなり室町から戦国期の戦乱の種になった足軽の供給源が消え、

江戸260年の太平の世が訪れた、そういう事になるようです。

 

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