フレディ・マーキュリーとはどんな人?QUEEN不滅のボーカリストの生涯


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現在、日本でも公開され世界中で大ヒットしている映画「ボヘミアン・ラプソディ」

この映画の主人公こそ伝説のイギリスロックバンドQUEEN(クイーン)のボーカルだったフレディ・マーキュリーです。

QUEENは1973年にデビューして現在までにシングル・アルバムを合計して2億枚以上を売り上げた最も売れたアーティストに名を連ねています。

そんなQUEENの顔として活躍したフレディ・マーキュリーはどんな人物だったのか?

映画を見る前にちょっと勉強してみましょう。

 

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実はペルシャ系インド人だったフレディ

 

フレディ・マーキュリーは元の名前をファルーク・バルサラと言い、1946年9月5日、当時イギリス領だったザンジバル島の

ストーン・タウンで誕生しました。

両親ともペルシャ系のインド人でパルーシー(ゾロアスター教徒)でしたが、植民地政府の会計係として働いていた父の仕事の都合で

当時はイギリスの保護国だったタンザニアのザンジバルに移り住んでいたのです。

 

フレディは幼少期の大半をインドで過ごし、7歳でピアノを習い1954年、ボンベイ郊外のパチンガニにある全寮制の英国式寄宿学校、

セント・ペータース・ボーイズスクールに通い、この頃からフレディは複数のロックバンドで活動するようになりました。

1963年、17歳のフレディはザンジバルに戻り、家族と暮らし始めますが、翌年にザンジバル革命が起こりアラブ人とインド人に多数の死傷者が出て、

家族は安全上の理由からザンジバルを逃れ、イングランド、ミドルセックス州のフェルサムにある小さな家に移り住みます。

 

このようにインドが故郷であるフレディですが、ロックバンドにインドは似合わないという理由で自分がインド出身である事を隠したがり、

インドネタで自分をからかう友人には露骨に嫌な顔をしたそうです。

同時に当時のイギリスでは、インド人に対する人種差別が普通にあった事も影響しました。

 

さて、彼の両親は郊外住宅の使用人として職を得て、フレディ自身はウェスト・ロンドンにあるアイルワース工業大学に入り芸術を学び、

その後イーリング・アートカレッジに進み芸術とグラフィックデザインの終了証を受けました。

ここで学んだことはフレディにはプラスでバンドの特徴的なロゴや衣装なども自分でデザインしています。

 


 

フレディ、運命のバンド、スマイルと出会う

 

大学を卒業後、フレディはバンドに参加しながら、ガールフレンドのメアリー・オースティンとロンドンのケンジントンマーケットで

古着を販売したり、ヒースロー国際空港で荷物降ろしの仕事をしました。

フレディは、アルバイトの傍らバンド活動も継続しますが、解散したり、離脱したりとパッとしませんでした。

 

1970年4月、フレディはギタリストのブライアン・メイ、ドラマーのロジャー・テイラーが所属するバンド「スマイル」に加入します。

当時、スマイルは1969年に売り出したシングルEarth(アース)がまったくの不発に終わり、これを機にボーカル兼ベースのティム・スタッフェルが脱退、

その時に来たのがスタッフェルの同級生でバンドとも知り合いだったフレディでした。

 

その後、スマイルはフレディをボーカルにバンド名もQUEENに変更しました。

このQUEENというバンド名はゲイを連想させると、バンドメンバーのメイとテイラー、当時マネジメントをしていたトライデントスタジオが

難色を示しますが、

「分かりやすく堂々としていて世界中どこでも通じる」とフレディが押し切りました。

同時に、フレディは、この頃、名字ををバルサラからマーキュリーに改めています。

 

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鳴かず飛ばずだったが、クイーンⅡのアルバムから人気バンドに

 

1971年、QUEENは、ベーシストとしてジョン・ディーコンを加え4人体制で発足する事になりますが、最初のアルバム「戦慄(せんりつ)の王女」は、

リリースしたものの、既存のロックバンドの亜流と叩かれ、ロックらしからぬ複雑な曲構成で小細工に走りすぎていると酷評されます。

おまけにレコード会社の契約のゴタゴタでアルバム発売が1年以上も遅れ、出た瞬間にはすでに時代遅れになっていました。

 

しかし、デビューから3年目、1973年には「クイーンⅡ」をリリース、相変わらず英国では叩かれますがシングル曲、

「輝ける7つの海」のHITでアルバムは全英5位に上るまでになります。

これがQUEENの人気に繋がり、1974年のthirdアルバム「シアー・ハート・アタック」からの先行シングル「キラークイーン」が

全英2位のHITを記録しました。

 

その人気を受けて、アメリカでディープ・パープル、モット・ザ・フープルの前座としてアメリカツアーが決まりますが、

運の悪い事にギターのブライアン・メイが肝炎(かんえん)にかかりツアー途中でQUEENは降板を余儀なくされました。

翌1975年2月には再起をかけ、カンサス、スティクスの前座としてアメリカツアーを開始。

アメリカツアーは大盛況でキラークイーンは、全米12位までランクを上げました。

しかし、今度はフレディが頑張りすぎて喉を傷めてしまい、しばらく安静状態になります。

幸い喉は奇跡的に回復し、全米ツアーを盛況で終わらせる事が出来ました。


 

清潔感がありオシャレという理由で日本でアイドル的人気に

 

1975年4月、QUEENは日本で初のツアーを行いますが、それ以前から日本でQUEENは女性人気を得ていました。

それまでのロックバンドはどこまでも野暮ったく男クサいのに対し、QUEENは清潔感がありオシャレだったので、女性の追っかけが発生し

アイドル扱いだったのです。

空港にやってきた4人を出迎えたのは、1200人という熱狂的な女性ファンでした。

武道館ライブでは、黄色い声援と失神者が続出、あまりのヒートぶりにフレディは「皆んな、少し冷静になって!」と注意を呼び掛ける程でした。

 

本国英国では、批判ばかりで散々な扱いだったQUEENは、来た事もない日本のファンにここまで大歓迎された事に感激し日本びいきになりました。

特にボーカルのフレディは、日本では人種差別がなく、インド出身の自分でも対等に扱ってくれることに感銘を受け、コンサート以外でも

おしのびで度々日本に来る親日家になって日本語も習得、日本でのコンサートでは、半分を日本語でファンと交流したそうです。


  

 

 

ボヘミアン・ラプソディが英国史上最大のHIT

 

同年、10月QUEENは4枚目のアルバム「オペラ座の夜」からの先行シングル「ボヘミアン・ラプソディ」をリリースします。

しかし、QUEENを語る上で外せないボヘミアン・ラプソディは完成当初、悪評だらけでした。

まず、曲が6分と長すぎてラジオでかからない、意味不明なリリックが不快、ロックファンはオペラパートなんか聞かない等々、、

 

EMIはボヘミアン・ラプソディの全カットを要求しますが、フレディとテイラーは、知り合いのラジオDJのケニー・エヴェレットに意見を求めます。

エヴェレットは、この曲を気に入り自身のラジオ番組で2日間で14回も流し、これが爆発的ヒットの呼び水になります。

 

ボヘミアン・ラプソディはチャリティでない曲としては、英国史上最高の593万枚を売り上げ、これに引っ張られる形でアルバム「オペラ座の夜」は、

初の全英1位を獲得、この頃からQUEENに冷たかった英国メディアからも好意的に扱われるようになりました。

ロックスターらしく、妥協せずに新しい表現を模索し続けたQUEENは、こうして全英の頂点に立ったのです。

 

その後のQUEENは活躍の場を世界に広げ、アメリカ、欧州、日本、南米でツアーを開始。

「伝説のチャンピオン」、「ウィ・ウィル・ロック・ユー」、「愛という名の欲望」「バイシクル・レース」、「ドント・ストップ・ミー・ナウ」等

今でも、テレビCMやドラマ主題歌で流れる多くの名曲をリリースし、総売り上げ枚数が2億枚という英国を代表するロックバンドに成長しました。

 

QUEENの特徴

 

QUEENはエレクトリックギターをダビングする事で造られるギター・オーケストレーションと

フレディーマーキュリー、ブライアン・メイ、ロジャー・テイラーが声のパートを重ねる事で作られる重厚なコーラスが大きな特徴でした。

メンバー4人がそれぞれ作詞を行い才能も多彩という稀有で個性的なバンドだったのです。

特にヴォーカルのフレディ・マーキュリーは、スタジアムのライブパフォーマンスで注目を集めました。

その過剰ともいえるサービス精神は随所に発揮され、奇抜な衣装で登場したかと思えば、衣服を脱いで行ってパンツ一丁でピアノを弾いたり、

※しかもパンツ一丁なのにネクタイは締めている悪ふざけ

スタジアムで自転車を乗り回したり、観客の意表を突く演劇的な演出でいつの間にか全ての観客の心を掴んでしまうのです。

特に1985年に行われ世界20億人に衛星中継されたチャリティイベント、ライヴエイドでは、スタジアムの72000人の観客が、

フレディのパフォーマンスに合わせて、手を叩いたり、歌ったり、揺れたりしました。

これは、一切の前説なしに行われ、世界で最も偉大な演奏と呼ばれています。

 

天才故の孤独とゲイとHIV

 

アーティストとしては成功したフレディですが、私生活では孤独でした。

フレディは両性愛者であり複数の男性と関係を持ち、その為に婚約していたメアリー・オースティンとの関係が悪くなり離婚します。

その後も彼女はフレディの友人として彼を支え続けますが、それはフレディの深すぎる孤独を癒すにはあまりにも足りませんでした。

また、フレディにとって家族同然だったQUEENのメンバーも知名度が上がるにつれ、ソロ活動を開始、家族を持つなどして多忙になり

フレディとの関係も希薄になっていきます。

 

今でもゲイに対する偏見は強いですが、フレディが生きた80年代は、それどころではない程の偏見に満ちゲイである事を公表する事は、

社会的な地位を失い抹殺(まっさつ)されるに等しい事でした。

もちろんフレディは生涯、自分がゲイである事を公表していませんが、マスコミはフレディを追いまわしフレディの男性交友を暴き、

面白おかしく書き立て繊細(せんさい)なフレディを追い詰めていくのです。

 

孤独なフレディに残されているのは、有り余るお金をバラまいて取り巻きを集め、乱痴気(らんちき)騒ぎで憂さを晴らす事だけでした。

ある年のフレディの誕生日パーティーでは一晩で8000万円も使ったそうです。

しかし、お金だけの人間関係は孤独とむなしさを増幅させるだけでした。

こうして、フレディは酒とドラッグに(おぼ)れ、注射器をまわして使った事によりHivに感染する事になりました。

80年代後半Hivは不治の病でした、フレディは死の恐怖に(さいな)まれます。

 

QUEENが絆を取り戻しフレディは45歳で死去

 

Hivによる病気の進行への恐怖と孤独、しかし、この頃フレディに大きな変化がありました。

同じくゲイであったジム・ハットンと知り合い、親密な関係になったのです。

フレディには、複数の同性の恋人がいましたが、多くはフレディのお金と名声についてきた軽薄な人達でした。

 

しかしジムは違い、寡黙(かもく)で温厚かつ誠実な人柄でフレディの深い孤独を支えました。

ジムは、フレディを通してHivに感染していましたが、その事を告げると、フレディを傷つけるからと沈黙を通したと言われています。

ジムは1991年にフレディが肺炎で死去するまで献身的に看病しました。

 

また、1985年のライブエイドのチャリティコンサートをきっかけに、疎遠になっていたQUEENのメンバーとの絆も強める事が出来ました。

元の婚約者のメアリーは再婚後もフレディの友人として彼を支え続け、フレディは絆を取り戻し命を燃やし尽くすように音楽活動に邁進します。

そして、1991年11月24日、Hivによる免疫不全が起こす肺炎で45歳で永眠しました。

 

フレディーマーキュリーの名言

 

フレディ・マーキュリーは過去をクソ喰らえと笑い、常に前を向いて走り続けた人でした。

最期に、そんな彼の名言を幾つか紹介しましょう。

 

僕はいつだって自分がスターだと知っていた、今では世界中が僕と同意見のようだ。

 

売れていない時から自分を信じたフレディらしい自信過剰(じしんかじょう)な程のセリフです。

でも、誰に励ましてもらうより、自分で自分を励ますのが一番ですよね。

 

僕はいつも自分に正直でいたいし、生きている限りは人生を大いに楽しみたいんだ

 

人は知らない間に、他人に期待される摩擦の少ない良い人になろうとします。

でも、それは本当の自分に仮面をつけて押し殺す事でもあるわけで、フレディはそれが嫌いでした。

 

妥協(だきょう)は僕にとって最も汚い言葉だ

 

売れ始めたQUEENに、所属レコード会社は確立した音楽路線を走るように要求しました。

その方が、楽にHIT曲を量産できるからです。

しかし、QUEENは同じことは二度とやらないを合言葉に度々、衝突しています。

それが一番、現れたのが「ボヘミアン・ラプソディ」でしょう。

ここで妥協しなかったからこそ、QUEENは不朽の名作を世に送り出したのです。

 

kawauso編集長の独り言

 

フレディ・マーキュリーの死は、QUEENの名声を不滅のものにしました。

特に遅れてQUEEN人気に火がついたアメリカでは、フレディの死は衝撃的に伝えられ過去のQUEENのアルバムの売り上げが

軒並み増加する現象を起こします。

母国である英国では、ボヘミアン・ラプソディが再び売れ始め同一曲でありながら二度全英1位に返り咲くという奇跡のような事態が起きました。

多くの楽曲が時と共に廃れていく中で、QUEENの楽曲は何度もcmで起用されQUEENを知らない若年層にも受け入れられています。

 

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