蜀の皇帝の劉備は前漢(前202年~後8年)の中山靖王の劉勝の子孫と自称していたことは、三国志ファンなら誰もが知っている有名な話です。もちろん〝自称〟なので本当の子孫ではありません。ところで劉備の中山靖王の子孫説はどこから出たのでしょうか?
また劉備には〝もう1つの子孫説〟が存在していたのです。
中山靖王子孫説と史実の矛盾点
実は劉備が中山靖王の子孫と自称していたのは小説『三国志演義』に記載されているように、黄巾の乱の時からではありません。この話が歴史書『三国志』で登場するのは2か所のみです。1つ目は『三国志』巻32・先主(劉備)伝の冒頭の劉備紹介のダイジェスト。
2つ目は劉備が皇帝に即位した章武元年(221年)の許靖という人物のセリフ。以上の2か所のみしか確認がとれません。それでは、中山靖王子孫説とは何か。原文は長いので以下のように図で示します。
図①『三国志』先主(劉備)伝における中山靖王子孫説
(1)劉啓(りゅうけい 前漢第6代皇帝)
↓息子
(2)劉勝(中山靖王 前漢第7代皇帝武帝の弟)←劉備が自称しているのはココです。
↓息子
(3)劉貞(りゅうてい 元狩6年<前117年>に陸上亭侯に封建されるが失脚する)
↓子孫が涿郡涿県に居住する。
(4)劉雄(りゅうゆう 劉備の祖父。東郡范県の長官まで出世する)
↓息子
(5)劉弘(りゅうこう 劉備の父。早死にする)
↓息子
(6)劉備(りゅうび 蜀の皇帝)
上記のような中山靖王子孫説ですが実は史実と矛盾します。
それは以下の3点です。
(1)劉貞が封建された陸上亭侯という位は『漢書』を調べても存在しない。
ただし、「陸上侯」は存在する。
(2)劉貞が封建された年代は『三国志』では元狩6年(前117年)となっているが、
『漢書』によると正しくは元封2年(前109年)である。
(3)劉貞が封建された陸城県は「中山国」に所属する土地であり、涿郡涿県の領域ではない。
以上の3点から、一般に知られている劉備の中山靖王子孫説は、史実と矛盾することが分かります。おそらく、劉備の皇帝即位時に緊急でねつ造した内容の可能性が高いです。
臨邑侯(りんゆうこう)子孫説
ところで、あまり知られていませんが、劉備が自称していたもう1つの子孫があります。それが冒頭で紹介したもう〝もう1つの子孫説〟です。これは魚豢という人が記した『典略』という書物に記されてします。『典略』によると、劉備は臨邑侯の子孫とされています。
臨邑侯とは後漢王朝の建国者光武帝の兄の孫である劉復のことです。それでは、先ほどと同じように図で示します。
図②『典略』の臨邑侯子孫説
(1)劉啓(りゅうけい 前漢第6代皇帝)
↓息子
(2)劉発(りゅうはつ 長沙定王 中山靖王劉勝の異母兄)
↓子孫
(3)劉復(りゅうふく 光武帝の兄の孫)←劉備が自称しているのはココです
↓子孫
(4)劉備(りゅうび 蜀の皇帝)
前漢第6代皇帝を出発点とすることは、中山靖王子孫説と変わりません。劉備は前漢第6代皇帝を好んでいたと分かります。実は劉備は荊州の劉表に亡命していた期間(201年~208年)から、たびたびこの経歴を使用していたようです。
また、劉備は亡命以前は、自分が漢王朝の一族と自称していた形跡の史料は存在しません。ところが、劉表に亡命して以降は、漢王朝の一族を積極的に自称するようになっています。それは荊州の劉表に関係がありました。
劉表と劉備の関係
劉備が亡命した荊州の劉表も漢王朝の一族と自称していました。残念ながら歴史書『三国志』には、誰の子孫かは記されていません。『後漢書』によると、魯恭王の劉余の末裔とされています。図で表すと以下の通りになります。
図③『後漢書』による〝自称〟劉表の先祖
(1)劉啓(りゅうけい 前漢第6代皇帝)
↓息子
(2)劉余(りゅうよ 魯恭王 長沙定王劉発の兄)←劉表が自称しているのはココです。
↓子孫
(3)劉表(りゅうひょう 荊州の長官)
図②と③を比べると分かると思いますが、劉表が自称していた劉余、劉備が自称していた劉復の先祖の劉発は兄弟関係です。もちろん2人とも自称なので、本当の子孫ではありません。では、なぜこのような偶然にしては出来すぎた関係が生じるのでしょうか。
建安六年(201年)、劉備は袁紹と手を組んでいましたが、曹操に破れて、劉表のもとに逃げました。普通に亡命を頼めば、いつかは曹操に引き渡される恐れもあります。そこで劉備が思いついたのが、自分と劉表の先祖は兄弟関係という設定です。劉表も先祖が兄弟関係と言われたら嫌とは言えず、亡命を許したのです。ただし政治的権限は与えず、曹操軍の最前線に配置していました。
三国志ライター 晃の独り言
こうしてみると、劉備は外交上手な人間だと分かります。また、そんな劉備を表面上とはいえ、約8年も受け入れた劉表も大した男ですね。
※参考 津田資久「劉備出自考」(『国士館人文学』3号 2013)
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