広告

漢代の後宮ってどんな感じだったの?ドラマのようにドロドロだった?

2019年2月1日


 

はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

後宮にいる美女の階級事情

 

 

歴史を主体的に動かすのは男性であり、女性は飽くまでわき役でしかないと思われがちですが、女性がいたからこそ命が紡がれ歴史が動いてきたということを忘れてはいけません。特に、皇帝の跡継ぎを生み出す役割を担っていた後宮にいた女性たちは歴史を動かすための大きな役目を果たしてきました。

 

後宮といえばいつの時代も女同士のドロドロとした戦いが繰り広げられてきたいわば女の戦場です。特に漢代の後宮は外戚や宦官の争いも相まってとんでもないカオス状態でした。今回はそんな漢代の後宮事情についてご紹介したいと思います。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



漢王朝建国後間もなくドロドロの世界に

呂雉(りょち)

 

高祖・劉邦(りゅうほう)が漢王朝を建国した際には既に呂雉(りょち)という妻がおり、後に恵帝(けいてい)となる劉盈(りゅうえい)魯元公主(ろげんこうしゅ)となる娘をもうけていました。このように既に妻子があった劉邦ですが、やはり皇帝になったということで後宮が設置されて劉邦は別の女性との間にも愛を育むことになります。

 

呂雉は皇后となり後宮の中で最も高い地位を得たのですが、子どもたちの後継者争いに巻き込まれて心をすり減らすことに。

 

 

復讐の鬼に変貌する呂雉

 

劉邦が崩御した後、晴れて息子が恵帝となり、自らも皇太后となったのですが、やっぱり彼女の心は晴れなかったらしく後継者争いでライバルとなった者たちの暗殺を企てます。目下の邪魔者は(せいおう)劉肥(りゅうひ)趙王(ちょうおう)劉如意(りゅうにょい)の2人。恵帝の兄にあたる劉肥は正直なところ大昔から目の上のたんこぶのような存在でした。

 

そんな劉肥は恵帝が皇帝となったのにもかかわらず相変わらず恵帝に対して兄貴風を吹かせ宴席でも上座に座ります。これを快く思わなかった呂太后(りょたいこう)は劉肥の酒に毒を盛って暗殺しようと企みました。ところが、母の怪しい行動に気づいた恵帝が機転を利かせて毒杯を手に取って飲もうとし呂太后が慌てて止めたことで劉肥は命を救われます。

 

一方、劉如意はその母・戚夫人(せきふじん)と共に熾烈に後継者争いを演じた呂太后にとっての天敵です。呂太后はやっぱり毒殺を企むのですが重臣・周昌(しゅうしょう)や恵帝によって何度もそれを阻止されます。ところがある日呂太后は彼らの隙をついて劉如意を呼び寄せて毒殺。更に戚夫人も捕らえて奴隷の身分に落とし、両手両足を切断して目玉をくり抜いて毒を盛って耳と声を潰し便所に住まわせて「人彘(人豚)」と呼んで大爆笑していたそうな。このように漢王朝建国後間もなく後宮では血みどろの争いが繰り広げられていたのです…。

 

関連記事:後宮に入っても安泰じゃない?女の園の階級闘争とは

関連記事:後宮にも上下関係が存在した?三国志後宮キャリア物語

 

 

 

武帝の時代に美女のための新しい称号が増える

 

ドロドロの後宮でしたが時代を経るごとに後宮の美女の数は順調に増えていったようです。後宮には秦代の制度を踏襲して主に皇后・夫人・美人・良人・八子・七子・長使・少使更には五官・順常・無涓・共和・娛霊・保林・良使・夜者といった多くの称号が設けられていたのですが、それでも前漢7代皇帝武帝(ぶてい)の時代には「寵愛する美女に与える称号が足りない!」という事態に陥ってしまいます。

 

そこで武帝は新しく婕妤・娙娥・容華・充依の4つの称号を増やし愛する美女に位を授けたのだそうです。

 

 

元帝の時代には3000人もの美女が集められる

 

武帝の頃もかなりの数の美女が後宮でひしめき合っていたようですが、更に時代が下って前漢10代皇帝・元帝(げんてい)の時代になると3000人もの美女が後宮に集められていたのだそう。元帝は更に昭儀という称号を増やし美女たちに愛を注いでいたようですが、元帝の知らないところでは女たちの熾烈な争いが繰り広げられていたことでしょう…。

 

 

不細工に描かれた王昭君の悲劇

 

元帝の後宮の話として最も有名なのは絶世の美女・王昭君(おうしょうくん)の悲劇です。当時の宮女たちは元帝の気を引くために画家に自分のことを美しく描いてもらおうと多額の賄賂を贈っていたそう。ところが、王昭君だけは賄賂を贈らず実物よりも不細工に描かれてしまいます

 

そんな折、匈奴の王から漢の女性を妻にしたいとの依頼が舞い込んできます。そこで元帝は「後宮の美女の中でも一番不細工で要らない女をくれてやれ。」と不細工に描かれていた王昭君を選ぶことに。しかし、実際に王昭君を目にした元帝はビックリ。なぜなら、後宮の中のどの女性よりも王昭君が美しかったのですから。

 

しかし、悔しがっても後の祭り。王昭君は匈奴の王の元へと嫁いでいったのでした

 

 

後漢代に光武帝が後宮の簡素化を実施

ダークサイドに堕ちた王莽

 

王莽(おうもう)の簒奪によって一度滅んだ漢王朝ですが、後漢初代皇帝・光武帝(こうぶてい)の手腕によって再び息を吹き返します。その光武帝は歴代の皇帝たちによって更に複雑化してしまっていた後宮の簡素化を強行。あれほどたくさんあった後宮の称号は皇后・貴人・美人・宮人・采女だけになりました。

 

 

三国志ライターchopsticksの独り言

三国志ライター chopsticks

 

現代でも女性だけが集まるところは怖いと言われますが、後宮はその最たる例と言えるでしょう。そんな事情を知ってか知らずか後宮の称号を増やしたり減らしたりしていた漢の皇帝たちは一体何を考えていたのでしょうかね。

 

関連記事:歴史書によく出てくる「尚書」って何?女の尚書もいた!?

関連記事:一体なぜ?顔も性格も美しすぎる甄氏が壮絶な死を遂げたわけ

 

楚漢戦争

 

 

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
chopsticks

chopsticks

清朝考証学を勉強中。 銭大昕の史学考証が専門。 片田舎で隠者さながらの晴耕雨読の日々を満喫中。 好きな歴史人物: 諸葛亮、陶淵明、銭大昕 何か一言: 皆さんのお役に立てるような情報を発信できればと思っています。 どうぞよろしくお願いいたします。

-前漢
-