歴史を主体的に動かすのは男性であり、
女性は飽くまでわき役でしかないと思われがちですが、
女性がいたからこそ命が紡がれ
歴史が動いてきたということを忘れてはいけません。
特に、
皇帝の跡継ぎを生み出す役割を担っていた
後宮にいた女性たちは
歴史を動かすための大きな役目を果たしてきました。
後宮といえばいつの時代も
女同士のドロドロとした戦いが繰り広げられてきた
いわば女の戦場です。
特に漢代の後宮は
外戚や宦官の争いも相まって
とんでもないカオス状態でした。
今回は
そんな漢代の後宮事情について
ご紹介したいと思います。
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この記事の目次
漢王朝建国後間もなくドロドロの世界に
高祖・劉邦が漢王朝を建国した際には
既に呂雉という妻がおり、
後に恵帝となる劉盈と魯元公主となる娘をもうけていました。
このように既に妻子があった劉邦ですが、
やはり皇帝になったということで後宮が設置されて
劉邦は別の女性との間にも愛を育むことになります。
呂雉は皇后となり
後宮の中で最も高い地位を得たのですが、
子どもたちの後継者争いに巻き込まれて
心をすり減らすことに。
劉邦が崩御した後、
晴れて息子が恵帝となり、
自らも皇太后となったのですが、
やっぱり彼女の心は晴れなかったらしく
後継者争いでライバルとなった者たちの暗殺を企てます。
目下の邪魔者は
斉王・劉肥と趙王・劉如意の2人。
恵帝の兄にあたる劉肥は正直なところ
大昔から目の上のたんこぶのような存在でした。
そんな劉肥は
恵帝が皇帝となったのにもかかわらず
相変わらず恵帝に対して兄貴風を吹かせ
宴席でも上座に座ります。
これを快く思わなかった
呂太后は劉肥の酒に毒を盛って暗殺しようと企みました。
ところが、
母の怪しい行動に気づいた
恵帝が機転を利かせて毒杯を手に取って飲もうとし
呂太后が慌てて止めたことで劉肥は命を救われます。
一方、劉如意はその母・戚夫人と共に
熾烈に後継者争いを演じた
呂太后にとっての天敵です。
呂太后はやっぱり毒殺を企むのですが
重臣・周昌や恵帝によって
何度もそれを阻止されます。
ところがある日
呂太后は彼らの隙をついて劉如意を呼び寄せて毒殺。
更に戚夫人も捕らえて奴隷の身分に落とし、
両手両足を切断して目玉をくり抜いて
毒を盛って耳と声を潰し
便所に住まわせて
「人彘(人豚)」と呼んで大爆笑していたそうな。
このように漢王朝建国後間もなく
後宮では血みどろの争いが繰り広げられていたのです…。
武帝の時代に美女のための新しい称号が増える
ドロドロの後宮でしたが
時代を経るごとに後宮の美女の数は
順調に増えていったようです。
後宮には秦代の制度を踏襲して
主に皇后・夫人・美人・良人・八子・七子・長使・少使
更には五官・順常・無涓・共和・娛霊・保林・良使・夜者
といった多くの称号が設けられていたのですが、
それでも前漢7代皇帝・武帝の時代には
「寵愛する美女に与える称号が足りない!」
という事態に陥ってしまいます。
そこで武帝は
新しく婕妤・娙娥・容華・充依の4つの称号を増やし
愛する美女に位を授けたのだそうです。
元帝の時代には3000人もの美女が集められる
武帝の頃もかなりの数の美女が
後宮でひしめき合っていたようですが、
更に時代が下って前漢10代皇帝・元帝の時代になると
3000人もの美女が後宮に集められていたのだそう。
元帝は更に昭儀という称号を増やし
美女たちに愛を注いでいたようですが、
元帝の知らないところでは
女たちの熾烈な争いが
繰り広げられていたことでしょう…。
不細工に描かれた王昭君の悲劇
元帝の後宮の話として最も有名なのは
絶世の美女・王昭君の悲劇です。
当時の宮女たちは元帝の気を引くために
画家に自分のことを美しく描いてもらおうと
多額の賄賂を贈っていたそう。
ところが、
王昭君だけは賄賂を贈らず
実物よりも不細工に描かれてしまいます。
そんな折、
匈奴の王から漢の女性を妻にしたいとの
依頼が舞い込んできます。
そこで元帝は
「後宮の美女の中でも
一番不細工で要らない女をくれてやれ。」
と不細工に描かれていた王昭君を選ぶことに。
しかし、
実際に王昭君を目にした元帝はビックリ。
なぜなら、
後宮の中のどの女性よりも
王昭君が美しかったのですから。
しかし、
悔しがっても後の祭り。
王昭君は匈奴の王の元へと
嫁いでいったのでした。
後漢代に光武帝が後宮の簡素化を実施
王莽の簒奪によって一度滅んだ漢王朝ですが、
後漢初代皇帝・光武帝の手腕によって
再び息を吹き返します。
その光武帝は
歴代の皇帝たちによって更に複雑化してしまっていた
後宮の簡素化を強行。
あれほどたくさんあった後宮の称号は
皇后・貴人・美人・宮人・采女だけになりました。
三国志ライターchopsticksの独り言
現代でも
女性だけが集まるところは怖いと言われますが、
後宮はその最たる例と言えるでしょう。
そんな事情を知ってか知らずか
後宮の称号を増やしたり減らしたりしていた
漢の皇帝たちは一体何を考えていたのでしょうかね。
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