今回は2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公・明智光秀が愛用した刀について取り上げます。アニメ刀剣乱舞等の影響もあり、近年、再びブームになっている日本刀、武士が常に手元から離さない、そのマストアイテムには不思議に持ち主である武士の考え方や人生までが集約されていくように感じてしまいます。一度は天下を取った男、明智光秀、彼の愛刀はどんなものだったのでしょうか?
明智光秀が愛用した備前長船近景とはどんな刀?
明智光秀が愛用した刀は、備前長船近景と言います。備前近景という人は、鎌倉時代中期に出現した長船派の巨匠、長船光忠・長光の直系で鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて活躍しました。元々、岡山県は平安時代から現代にいたるまで日本刀の代表的な産地であり、名だたる名工、名刀が多く出ている土地でもあります。もちろん、戦国武将にも愛好者が多く長船は出来る戦国武将の所持刀としてブランド化していました。こちらの備前長船近景、光秀が活躍した戦国後期から考えても200年くらいは経過していてかなりの骨董品です。流石は明智光秀、刀剣を見る目も高いと言えるでしょう。
備前長船近景の特徴とは?
では、こちらの備前長船近景の刀の特徴を紹介します。備前長船近景の地肌は、金属なのにまるで木目のような文様が出た板目肌です。それも薄い木目ではなく濃く文様が出ていました。日本刀の人を斬る部分を刃文と言いま、光秀の刀は直線的に刃文が入った直刃ですが、やや刃文が乱れた丁子文になっています。
備前長船近景全体の刃文は波のようにうねっており、これを直足(のたれ)と言います。刀身はやや磨りあがっているものの、全体としては身幅が広く、華麗さよりも、実用に適しているのが備前近景の特徴と言えるでしょう。華麗さを持ちつつ、実際にもかなり使える刀であるというのは、室町文化の教養人でありながら戦争で敗走した事は一度しかない名将、明智光秀らしいと思います。
縁起悪っ!銘を削られた光秀の愛刀
明智光秀の愛刀、備前近景ですが、なぜかこの刀には「備州長船近」という景が消された不完全な銘が残っています。なぜ銘が不完全な状態なのでしょうか。理由として、幕末期に備前近景を入手した庄内藩勘定奉行が、明智日向守所持という所持銘が入っている事を嫌い削った事が考えられます。
つまり、本能寺で主君信長を討った逆賊の刀など縁起が悪いという事です。そんなのは迷信と思うかも知れませんが、例えば徳川家の家臣では、関ケ原の合戦以後、村正を持つ事がタブーだった事が知られています。その理由は、徳川家康の祖父の松平清康が家臣阿部正豊の裏切りで殺された事件(森山崩れ)で阿部が使った刀が丁子村正であった事に由来するそうです。
つまり、庄内藩の勘定奉行は逆臣の刀を持って主君に仇をなすつもりかと難癖をつけられる事を恐れて銘を削ったのだろうと考えられます。本能寺の変で主君を裏切った逆賊として明智光秀は語り継がれていることが分かりますね。長船長光以外では、短刀で有名な粟田口吉光が挙げられます。他に岡崎正宗も刀鍛冶として有名です。
戦国時代ライターオフィス樋口の独り言
今回はこの記事の前半で明智光秀の刀について取り上げました。明智光秀の刀については備前近景と伝えられていることを紹介しましたが、刀にある銘が削られていることが分かりました。明智光秀が逆賊であることから銘を削ったと考えられますが、300年以上経っても逆賊として語り継がれていたことが意外だと感じました。
一方で、桶狭間の戦いで今川義元を破った織田信長は、今川義元の銘がある短刀を持ち続けていたという逸話があります。織田信長の死後、豊臣秀吉・徳川家康へと受け継がれていたと伝えられています。
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