現在世界3位の国土を誇る中国ですが、その国土はいかにして形成されたか皆さんはご存知でしょうか?
実は、現代の中国地図の基礎ともいえる領土は漢王朝の御代に形成されていたと言われています。漢王朝はいかにしてその領土を拡大していったのでしょうか?
その軌跡を追ってみましょう。
この記事の目次
秦の領土は現代の中国地図の半分も無かった?
初めて中華統一を果たした王朝といえば秦ですよね。しかし、中華統一と言っても現代の中国の領土の全てを手中に収めたわけではありませんでした。現代中国地図に重ねてみればその差は歴然。秦の領土は現代の中国地図の半分以下、もしかしたら3分の1ほどしか無かったようです。
そのような状態から、現代地図レベルにまで領土を拡大したという漢は一体どのような方法で領土を広げていったのでしょうか?
長安を都として中原一帯に君臨
楚漢戦争で項羽を下し、天下に君臨することになった劉邦。彼は元々漢王として漢中に封ぜられていましたが、心機一転、長安を都に定めて政を行いました。
長安は現代の陝西省西安市。中国のド真ん中に位置する都市です。劉邦は都・長安を中心に中原一帯を直接統治し、日本海に接する東側の地域一帯を諸王侯に統治させました。この頃の漢の領土は秦の領土よりも狭く、国力がそれほど備わっていなかったことが窺えます。
武帝の時代に支配領域が最大に
匈奴を中心とする異民族と押し合いへし合い領土を奪い合っていた漢王朝ですが、武帝の時代に領土を一気に拡大していくことに成功します。
対外遠征に積極的だった武帝は東は朝鮮半島、南は現代のベトナム、西は現代のキルギスあたりまで領土を広げ、漢王朝は全盛期を迎えました。しかし、武帝は北西方向への進行を積極的に行い、チベット高原のあたりはノータッチだったため、現代の中国地図の形に近づきはしたものの南西側がぽっかり空いた状態の歪な形の領土が出来上がったのでした。
王莽の簒奪後独立勢力が現れるも再統一を果たす
前漢王朝が王莽の簒奪によって倒れた後、程なくして後漢王朝が立てられましたが、光武帝が即位したからと言って武帝が獲得した領土をそのまま継承することはできませんでした。
なんと巴蜀で蜀王を自称して「成家」なる国を建てた者が現れたのです。そのため、光武帝の最初の仕事は巴蜀の奪還になりました。
10年ほどの歳月を要したものの、光武帝は見事巴蜀を制圧。後漢王朝による中国の再統一が成し遂げられたのでした。
後漢末期には見事バラバラにされてしまった領土
外戚VS宦官の戦いにより滅茶苦茶になってしまった後漢末期。黄巾の乱が起こってからは群雄と呼ばれる者たちが現れ、各地に軍閥が出来上がります。
群雄たちは漢王朝から領土を頂戴したという体裁をとっていたものの実際は好き勝手に欲しい領土を自分のものにしていました。
結果的に戦国時代を彷彿とさせるほど漢の領土はバラバラになってしまったのですが、群雄たちも淘汰されていき、劉備・曹操・孫権の勢力だけが残ります。
三つ巴の様相を呈し、いよいよ再統一の日も近いかに思われましたが、再統一が果たされる前に
後漢最後の皇帝・献帝が曹丕に禅譲を迫られたことによって漢王朝は滅亡してしまったのでした。
その後、三国時代を経て司馬炎を中心に西晋によって中華統一が果たされたものの、漢王朝ほどの領土を得ることはできなかったようです。
三国志ライターchopsticksの独り言
現代の中国地図と漢王朝全盛期の地図とを比べてみると確かに中国地図の大枠は完成していたようですが、やっぱりまだまだ小さかったのだなと思いますよね。やっぱりチベット高原のあたりがぽっかり空いているのが気になっちゃいます。チベット高原が中国地図に組み込まれるのは清代になってからなので、現代の中国地図とほぼ変わらない領土が完成したのは清代と言えるでしょう。
それでも、漢王朝の武帝が西域を支配していなければ現代の中国地図の形はまた違うものになっていたのではないでしょうか。
関連記事:ええっ?こんなに大変だったの!献帝の東遷を地図で徹底解説