岳王廟は恐怖の心霊スポットなのか?岳飛廟を分かりやすく紹介

2019年3月1日


 

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岳飛(南宋の軍人)

 

岳飛(がくひ)南宋(なんそう)(1127年~1279年)初期の武人です。北宋(ほくそう)(960年~1127年)が(きん)により滅亡させられたことにより、軍に入隊して頭角を現しました。一兵卒から軍の総司令官にまで成り上がりましたが、金(1115年~1234年)との和議を望む宰相の秦檜(しんかい)や南宋初代皇帝高宗(こうそう)と対立をしました。

 

その結果、子の岳雲(がくうん)、部下の張憲(ちょうけん)と一緒に無実の罪で投獄されて紹興11年(1141年)に殺されました。金と死ぬまで戦ったことから、「中国史上最大の英雄」と称賛されています。一方、岳飛を謀殺した秦檜は「中国史上最悪の奸臣」評価されています。

 

さて、岳飛は死後、各地に(びょう)が建設されました。「廟」とは簡単に言えば、祖先の霊を祀る宗教施設です。岳飛の廟は「岳王廟(がくおうびょう)」と呼ばれており、死後に各地に建設されました。墓は江蘇省(こうそしょう)杭州市(こうしゅうし)の西湖近くの岳王廟にあるのですが、中国は広くて簡単には行けません。

 

だから、みんな近くの岳王廟の参拝で済ませます。今回は岳王廟に関する解説を致します。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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岳王廟第1号

 

 

現在、有名な岳王廟は、前述した江蘇省杭州市の西湖近くの岳王廟です。これは岳飛の墓があるから有名なのです。ところが、最初に建設されたのは全く違う場所です。

 

紹興31年(1161年)に金が和睦を破り南宋に侵攻してきました。幸いにも戦いは南宋の勝利に終わりました。この時に岳飛に対しての復権運動が起きました。南宋第2代皇帝孝宗(こうそう)は、岳飛の官職を元に戻して、墓も改めて作り直しました。現在も存在している岳飛の墓は、この時のものです。

 

しかし、特に廟は建設されていません。時が流れて乾道5年(1169年)には武昌(湖北省武昌区)地元住民からある頼みがきました。

 

「岳飛を祀る廟を建設してください」

 

これが記念すべき岳王廟第1号です。

 

この時に「忠烈(ちゅうれつ)」という名をおくりました。残念ながら、この廟はすでに残っていません。日中戦争の時に、空爆により破壊されました。現在は痕跡が残っている程度です。

 

 

 

岳王廟の鉄像

 

岳王廟には有名なものが置いてあります。秦檜と彼の妻の(おう)氏、さらに岳飛謀殺に協力した張俊(ちょうしゅん)万俟卨(ぼくきせつ)の鉄像です。かつて、参詣者はこれらの鉄像に小便や唾をかけたと言われています。

 

秦檜(南宋の政治家)

 

現在は鉄像の近くに「唾をかけないでください」と立て札があります。歴史的側面から見れば秦檜の和議は正しかったと言われていますが、当時の中国人は許せなかったのです。最初は秦檜夫婦と万俟卨の鉄像だけでしたが、明(1368年~1644年)になり、張俊の鉄像が増えました。

 

清(1644年~1911年)になると、岳飛ばかり持ち上げて秦檜を貶めることに疑問も出ました。これは清を建国した民族が金と同じ女真族だったから、秦檜に同情的だったのです。そのため、鉄像撤去の計画も出ましたが実現はしませんでした。

 

 

岳飛の呪い?

 

岳王廟の鉄像には奇怪な話が残されています。清の康熙年間(1662年~1722年)のこと。役人の淮維珍(わいいちん)が西湖の岳王廟を礼拝した時に、人々が秦檜たちの鉄像をムチで叩いていました。

 

「年月が経過しているのに、まだこんなことをやっているのか」と淮維珍は思いました。

 

秦檜に同情した淮維珍は鉄像を撤去することを考えました。だがその瞬間、淮維珍は背中を何者かに叩かれました。淮維珍が周囲を見渡しても誰もいませんでした。ぞっとした淮維珍は戻りましたが、帰路で病気になり、すぐに亡くなりました。

   

 

鉄像の感謝

 

こんな話もあります。乾隆年間(1736年~1795年)のことです。役人の熊学鵬(ゆうがくほう)は秦檜たちの鉄像が壊れたので、修理してほしいと人々から要請がきました。

 

しかし熊学鵬は拒否しました。(訳は現代の人に分かりやすくしています)

 

「秦檜や岳飛も死んで随分と経過している。鉄像に感覚があるわけでもあるまい。修理する必要はない」熊学鵬の考えは、現実的でした。

 

ところがその夜に、熊学鵬の夢枕に秦檜たちが出現して、「ありがとう」とお礼を述べました。起き上がった熊学鵬は気持ち悪くなり結局、鉄像を修理しました。諦めが早いです。

 

諦めたらそこで試合終了ですよ、熊学鵬!

 

あっ、もう終わっていましたね・・・・・・

 

宋代史ライター 晃の独り言

 

最後に私的なをしておきます。筆者は中国史は好きなのですが、1度も中国に行ったことがありません。いつも書籍や地図とにらめっこです。

いつかは、中国に行き岳王廟を参拝したいものです。

 

 

※参考文献

・外山軍治『岳飛と秦檜 主戦論と講和論』(冨山房 1938年)

 

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