この記事の目次
李信ネタバレ 李信の嫁は誰なのか?
本編であるキングダムでも、李信が誰と結婚するのかは大きな話題です。李信の嫁としては、すでにキスを済ませた間柄である河了貂が有力ですが、よく意味が分からないながら信の子供を産みたいと爆弾発言をしたり、戦場での事とはいえ、かなりの頻度で信に抱擁されたり背負われたりと密着するシーンが多い羌瘣も侮り難いでしょう。
さらに情熱大陸では、作者自身が信と羌瘣の間にロマンスシーンを構想していると仄めかした事もあるので、漫画的には紀元前228年前後、史実の羌瘣が歴史から消える頃に結婚というシナリオが有力かもしれません。
とまれ、これは、あくまでもキングダムでの話です。史実の李信の結婚相手となると、これがよく分かりません。ただ、漫画とは違い、史実の李信はかなり名門の出身のようで、『新唐書』宗室世系表によると隴西李氏は嬴姓の出自であり、顓頊高陽氏の子孫とされています。本当かどうか分かりませんが、春秋時代の道家の哲学者老子は本名を李耳といい、この顓頊高陽氏の出自だそうです。
この顓頊高陽氏というのは、秦や趙の王室の祖先でもあり、つまり、李信は遡ると始皇帝と先祖が同じという事になります。そればかりか、あの趙のオフ王とも先祖が同じという事に・・
そして、李信の祖父である李崇は秦の隴西郡守で南鄭公になり、父の李瑤は秦の南郡郡守、狄道侯となったとあります。さらに李信自身も秦の大将軍、隴西公になったとされています。何が言いたいのかというと、史実の李信は王賁クラスの名家の出で、おそらく始皇帝から公女を嫁に与えられた可能性が高いです。だからこそ、楚の項燕に大敗しても助命されて、さらに汚名返上の機会も与えられたと見るべきでしょう。
※ただし新唐書は唐王朝の出自を飾る為に粉飾が疑われていて、特に、李信から4代先までの子孫について経歴の裏付けはないそうです。李信が隴西公で大将軍になったという記述も新唐書にしか記述が見られず粉飾の疑いが拭えません。
子孫は漢の飛将軍
先に掲げた『新唐書』宗室世系表によると、李信の子孫には、錚々たる面子が名前を連ねている事が分かります。まず、李信の子の李超は漢の大将軍であり漁陽太守になり、この李超には子供が二人いて、長男が李元曠で漢王朝で侍中を勤め次男を李中翔といい、漢の河東太守、征西将軍として反乱を起こした羌族を討伐して戦没し死後に大尉(防衛大臣)の位を追贈されています。
これを見ると李信の子や孫は、李信が命を賭けて建国した秦を見限り、漢について秦を滅ぼす側に立ったという事になりますね。なんとなく直情径行な李信のイメージにあいませんが・・さらに、李仲翔の子の李伯考は漢の隴西・河東二郡の太守ととなり、この李伯考の子の李尚が漢の成紀県令になり、その李尚の子が漢の飛将軍、李広であるとされています。
李広は武勇抜群で優れた名将、匈奴相手に数々の勝利を挙げました。しかし、この人、とても自己PRが下手で寡黙な人なので身分も上がらず、ずっと戦争に強い便利屋さんとして辺境で戦いを繰り返しました。でも、とても人望があり皆に信頼され人が集まったので、桃李言わざれども下自ずから蹊を成すという格言が生まれました。
桃や李の樹は、自分で甘いよ!とPRはしないけど、皆、その甘さを知っていて自然に人が集まり憩い、道が出来るという意味です。そんな李広ですが、晩年に対匈奴戦で従軍を願い出るも、部隊が道に迷って決戦に間に合わずそれを恥じて自決してしまっています。正直で己を飾らず嘘が嫌いだった李広は先祖の李信に似ていますね。
こちらもCHECK
-
漢の飛将軍・李広の逸話「信念をもって行えばやれないことはない」
続きを見る
李信ネタバレ 皇帝までが子孫
李信の子孫の躍進はとどまる所を知りません。5世紀、五胡十六国時代に西涼を建国した武昭王李暠は李信を祖とし、その曾孫にあたる前漢の名将、李広の子にあたる李敢の15代目の子孫を名乗っていました。李暠は大らかな性格で歴史に通じ、武芸にも堪能、孫呉の兵法にも通じており紀元400年に即位してから17年間、北涼の侵略をはねのけつつも、農業と養蚕と交易に力を入れ、儒教を重視して国を円満に治めています。
もう一人、李信の子孫には、唐代の大詩人李白がいます。李白は前述した西涼の太祖、李暠の九世の孫であったとされているそうです。一説には李白は非漢族なので、李信の子孫ではないという噂もありますが逆に隋末に西域に追放された漢族で、そこで姓を変えて過ごし、唐の時代に入ってから中国に戻ってきて姓を戻したという説もあります。
李信の子孫で一番出世したのは、李暠の末裔で隴西郡成紀県を本貫とする李淵です。李淵は、北周の唐国公、安州総管を努めた仁公李昞の子として生まれます。隴西李氏は隋の前身北国の八柱告の家系で北魏の時代には皇后を出す資格を持つ家柄として重んじられた名門であり李淵が随の文帝の信任を得るようになった経緯は、文帝の皇后が李淵の叔母に当たっていたからだそうです。
このように随の文帝に重んじられ手柄も立てた李淵ですが、隋が悪名高い煬帝の時代になり、天下が乱れると息子である李世民や劉文静の勧めで反旗を翻し、長安を守っていた楊侑を恭帝として即位させ、まもなく煬帝が部下の反乱で殺害されると、恭帝に禅譲を行わせ皇帝に即位しました。この李淵の息子、李世民が中国史上屈指の名君とされる唐の太宗です。
こちらもCHECK
-
歴史上の最強の弓の使い手は誰?太史慈?李広?源為朝?立花宗茂?
続きを見る
キングダム(春秋戦国時代)ライターkawausoの独り言
いかがでしょうか?
キングダムの主人公の李信は、本当は名門の出身であり、始皇帝に気に入られて手柄を立て楚の項燕大将軍には大敗しましたが、この罪を許され、さらに手柄を立てる事で挽回し最後には斉を滅ぼして天下統一を始皇帝にプレゼントします。
しかし、その後の李信の記録は歴史から消えてしまいずっと後の時代に編纂された新唐書にしか存在せず、或いは始皇帝死後に、二世皇帝胡亥を擁立して権力を握った趙高により粛清されたかも知れません。
実際に秦は反乱軍が咸陽に迫る時まで、ろくに対処できず連戦連敗していてもし章邯が立ち上がらなければ、そのまま滅びていたかも
知れないからです。李信のような建国の功臣が生きていれば、そんな事にはならなかった筈で、やはりあらかたの重臣は粛清されていたのかも知れません。
それなら李信の最後は悲惨な死であった事になり、その中から一部の子孫が粛清を免れて系譜を継いだのでしょう。一方で新唐書の記述を信じるなら、少なくとも李信は大将軍になって大往生し、その子の李超は秦末の動乱を潜り抜けて漢の高祖に仕えて大将軍になり
血筋を前漢の飛将軍、李広に伝え、その後も西涼の皇帝、李暠や唐代の詩人、李白、さらに唐の太祖、李淵を出すなど中国史上でも稀にみる英雄を出した家系になったと言えそうです。
キングダムファン向け:キングダムに関する全記事一覧
関連記事:【歴史嫌いな中高生必見】春秋戦国時代はいつ始まってどこで終えたの?
関連記事:衝撃の事実!忍者のルーツは春秋戦国時代の中国にあった?(HMR)