キングダム李信は最後には悲惨な死を迎えるって事実?

2019年3月6日


 

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大人気の春秋戦国時代(しゅんじゅうせんごくじだい)漫画『キングダム』、その主人公と言えばバカだけど仲間を思う心と決して諦めない事では誰にも負けない、元下僕出身の成り上がり(しん)です。実は、この信、架空のキャラクターではなく李信(りしん)という実際に存在した人物なのです。

 

憤死する麋竺(モブ)

 

 

そして、現在上り調子でブイブイ言っている李信は最後には死んでしまうという噂も・・果たしてそれは真実なのか、詳しく検証してみましょう。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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李信ネタバレ 李信の功績を紹介

 

今から2200年前、中国は七つの強国に別れて500年の戦乱の時代でした。(しん)()(えん)(かん)()(ちょう)(せい)、この七国の中で天下統一を果たしたのが、中国の西の外れにあり蛮族呼ばわりをされていた秦でした。この秦の王だった人物が秦王政(しんおうせい)であり、後の始皇帝(しこうてい)です。

 

秦王(始皇帝)に会見で近づく荊軻

 

そして、この始皇帝には片腕とも頼む多くの有能な将軍が仕えていました。李信は、そんな始皇帝お気に入りの将軍の一人であり、またもっとも信任を集めた人物でもあったのです。漫画キングダムでは、秦王政がまだ弱小の頃から登場している信ですが、実際に歴史に出現するのは紀元前229年 大将軍王翦(おうせん)が十数万の軍勢を率いて趙と対峙した時に趙の太原、雲中に出征した将軍として登場します。

 

荊軻

 

さらに紀元前226年、秦王政は燕の太子(たん)が自身を暗殺する為に送り込んだ刺客、荊軻(けいか)に対する報復で王翦と王賁(おうほん)に軍勢を与えて送り込みます。李信は、この時に1000名の兵を率いて燕軍を追撃し暗殺計画の首謀者である燕の太子丹の首を討ち取っています。歴史上は、これが李信が最初に挙げた大手柄だと見ていいでしょう。これで、李信は秦王政のお気に入りの人になったようです。

 

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李信ネタバレ 項羽の祖父に大敗北

 

ここまでなら完全無欠な英雄ですが、次に李信はやらかしてしまいます。紀元前225年、秦王政は長年の宿敵である楚を滅ぼそうと、若き李信とベテランの王翦に「いくら兵力があれば楚を倒せるか」と質問。これに対して王翦は「60万」と答え李信は「20万」と答えました。秦王政は李信の答えを野心的で勇敢と見て、李信を総大将にして楚の攻略を任せます。

 

敗北し倒れている兵士達b(モブ)

 

ところが、李信は副官の蒙恬(もうてん)と共に楚の大将軍項燕(こうえん)に大敗北します。それもその筈、この項燕という人、後の西楚覇項羽(こうう)の祖父にあたり非常に有能な将軍だったのです。李信と蒙恬は命からがら秦まで逃げ帰ってきます。

 

強引に法律の改革を行う商鞅(しょうおう)

 

本来なら戦争に敗れた将軍は処刑され、一族は財産を没収された上に奴隷に落とされるという過酷な運命に落ちますが、なぜか李信も蒙恬も、そんな過酷な処分をされませんでした。もしかすると、李信が秦王政のお気に入りだったという事が、大きな理由だったのかも知れません。

 

 

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—熱き『キングダム』の原点がココに—

春秋戦国時代

 

 

李信ネタバレ 斉を滅ぼして汚名返上

炎上する城b(モブ)

 

ところが李信の活躍はこれで終りにはなりませんでした。紀元前222年、李信は王賁と共に、燕王が逃げて樹立した遼東政権を攻めて滅ぼします。さらに、返す刀で趙の亡命王族である()が興した代国を滅ぼしました。

 

朝まで三国志 kawauso

 

こちらの代王嘉は、あの李牧(りぼく)が「趙国の光」とまでベタ褒めしていた人物ですがそれを滅ぼすのは李信なのです。なかなか因縁深い話ですね。

 

嬴政(始皇帝)

 

この手柄で秦王政の信頼を取り戻した李信は、さらに翌年には六国でただひとつ残った斉を、王賁、蒙恬と共に攻めて滅ぼし天下を統一したのです。こうしてみると、李信は日本の戦国時代の武将、仙石秀久(せんごくひさひで)のように大失敗してからこれを巻き返したド根性将軍と言えるでしょう。

 

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李信ネタバレ 最後はどうなるの?

宦官の趙高(キングダム)

 

では、天下統一後、李信はどうなったのでしょうか?

 

実は、その後、李信がどうなったか史記では記録が残っていないのです。紀元前221年、王賁、蒙恬、李信の揃い踏みで天下を統一したというのが、李信の最期の消息という事になります。

 

 

李斯

 

ただ李信が安らかに大往生したと考えるのは早計です。それというのも、秦は始皇帝の死後紀元前210年に後継者を巡る争いが起き宦官趙高(かんがんちょうこう)と丞相の李斯(りし)が結託、始皇帝の遺言を改竄(かいざん)して末子の胡亥(こがい)を二世皇帝に擁立し、ライバルになりそうな始皇帝の公子公女と、始皇帝時代の重臣や将軍達をほとんど粛清したからです。

 

 

陳勝・呉広

 

 

趙高は余りにも多くの将軍を殺した為に、始皇帝の死後に起きた農民反乱、陳勝(ちんしょう)呉広(ごこう)の乱を討伐する将軍を出す事が出来ずいよいよ、反乱軍が咸陽(かんよう)に迫るという窮迫した状態になり、本来は将軍ではない章邯が志願して、囚人たちを助命するかわりに秦兵として仕立てて少ない秦軍を補い、やっと反乱軍を撃退したくらいでした。

 

 

宦官の趙高

 

 

趙高は保身の為に、六国を滅ぼした将軍達を殺し尽くし、たかだか農民反乱を鎮圧する程度の将軍さえ派遣できずに、反乱を大きなものにしてしまったのです。この大殺戮に李信は連座しなかったのでしょうか?そこに史料がないので否定も肯定も出来ません。一度は趙高に加担した李斯は後に反趙高に回りますが、先手を打たれてスパイの罪をきせられ腰から下を切断する腰斬という刑に処せられ苦しみながら死にました。李信の同僚の蒙恬も趙高の陰謀で毒を飲んで死ぬように命令され絶望して自害し生涯を閉じました。そのような中で李信が最後に悲惨な死を迎えていないとは誰にも言えないのです。

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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