歴史上の最強の弓の使い手は誰?太史慈?李広?源為朝?立花宗茂?

2016年10月25日


 

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黄忠

 

いかに矛や槍の腕前が凄くても、弓の腕前に優れた武将はやはり脅威です。

百歩離れた場所から、次々と敵を射落とす凄技は、どんな戦場でも脅威になります。

そこで、今回のはじ三では日中の歴史人物から弓に優れた人々を紹介したいと思います。

日本と中国、最も弓術にすぐれた人物は、どちらにいるのでしょうか?

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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エントリー1 遠くからの悪口も無効、弓の名人、太史慈子義

太史慈 孫策

 

史上、小覇孫策(そんさく)と一騎打ちを演じた事でも

有名な武将が太史慈子義(たいしじ・しぎ)です。

 

太史慈と黄巾賊

 

彼は武勇でも優れていましたが、弓の腕前も一級品でした。

孫策の配下として、山賊の討伐をしていた時の事、遥か遠くの砦で、

山賊の一人が木を持って、孫策と太史慈を罵倒していました。

 

どうせ、何もできまいと、たかを括っていたのでしょうが、

太史慈は弓を引き絞って放つと、矢は賊の持っていた木に突き刺さり、

さらに手の甲まで貫通していたそうです。

 

そんな太史慈ですが、寿命には恵まれず、西暦207年、

赤壁の戦いの直前に病死しています。

 

周瑜と程普

 

もし、もう少し寿命が長ければ、周瑜(しゅうゆ)

黄蓋(こうがい)の名前と共に太史慈の名前も天下に轟いたでしょう。

 



エントリー2 矢が石に突き刺さった 元祖、漢の飛将軍 李広

信 キングダム

 

李広(りこう)は前漢時代の将軍で、文帝、景帝、武帝に仕えた名将でした。

優れた武勇と高い人徳で兵を統率し、匈奴と戦う事、七十回以上で、

度々勝利を掴んで、匈奴からは漢の飛将軍と恐れられました。

 

しかし、自己アピールが下手な李広は、手柄を立てても出世には恵まれず

最後には、老いた体に鞭を打ち匈奴討伐軍に参加して一花咲かそうとしますが、

後方軍に回された上に、道案内がいない事で自軍が匈奴との戦いに遅れます。

それを大将軍衛青(えいせい)に責められて、悔しさと情けなさの余りに自害しています。

 

そんな李広は、昔、母を虎に食べられた時、怒り狂い虎を探し出して、

弓で射た所、それは虎の体に突き刺さりました。

しかし、よくよく見ると、それは虎に似た石で、それが分ってからは

何度石に矢を撃ちこんでも刺さらなかったそうです。

 

西京雑記にある話で真偽は分かりませんが、

李広の集中力と弓の腕前の凄さを今に伝えている逸話です。

 

エントリー3 平安時代のガンダム 剛弓の使い手 源為朝

源為朝

 

源為朝(みなもとのためとも)は、鎌倉幕府を開いた源朝朝(よりとも)や

源義経(よしつね)の叔父にあたります。

父は、源為義(ためよし)と言い、その八男である事から通称で

八郎を名乗っていました。

 

生まれた時から乱暴者で手がつけられず、年長者にも遠慮なく

逆らい、いつか災いが、自分に及ぶと恐れた父の源為義により

13歳で九州に飛ばされます。

 

しかし、それで改心するような為朝ではなく、

鎮西追捕使(ちんぜいついぶし)を自称して、勝手に九州地方の

警察官となり鎮西八郎為朝を名乗るようになります。

九州の菊池氏、原田氏のような勇猛な九州武者と何十回と合戦をし

16歳で、これを悉く自分の配下にしてしまいます。

 

それで終わればいいんですが、相変わらずのヤンキーで、

神社で狼藉を働いたので訴えられ、都から出頭命令が出ますが、

これを無視、そのせいで父の為義が官職をクビになります。

 

流石のヤンキー為朝も「親父に迷惑かけちまった」とショックを受け

九州から精鋭28騎を率いて上京しました。

 

しかし、為朝が上京した翌年、保元の乱が発生、

崇徳(すとく)上皇派と後白河(ごしらかわ)天皇派で権力を巡る争いが発生し、

為朝は、父と共に上皇方について参戦しました。

 

為朝は身長2メートル10センチで、自分の身の丈を超える

普通の人では五人掛りでないと引けない剛弓を引きました。

それは、一度放つと、敵を二人まとめて串刺しにし、

船に向かって放つと船が沈没するというレベルでした。

それはレーザービーム並みで、平安時代のガンダムです。

兵力では優勢な天皇側の平清盛(たいらのきよもり)も、武勇で知られた

異母兄の源義朝(よしとも)も為朝の弓で射られるのを恐れて

前に出られない程でした。

 

源為朝は保元の乱に敗れて逃げ、捕まりますが、

あまりの武勇を惜しんだ後白河天皇方に助命され伊豆へ流されます。

しかし伊豆でも大暴れし、伊豆七島を支配して平氏に背いたので、

討伐軍を差し向けられ戦死したそうです。

 

関連記事:【権力を巡る兄弟の確執】曹丕&曹植 VS 後白河天皇&崇徳天皇

 

立て続けに鳥を射て命中、立花宗茂

立花宗茂

 

立花宗茂(たちばなむねしげ)は戦国時代後期に活躍した武将です。

北九州の覇者である大友氏の重臣である高橋紹雲(じょううん)の子ですが、

父の無二の親友で名将である立花道雪(どうせつ)に子供が無かったので

道雪のたっての頼みで紹雲が折れ、宗茂は立花家の養子に入ります。

 

その後大友氏は勢力が傾き、南の島津氏に攻め込まれます。

大友家の武将達が次々と寝返る中で宗茂の父、紹雲も義理の父、

道雪も決して主君を裏切らず、立花道雪は戦闘中に病死、

高橋紹雲は岩屋城に二千の兵で籠城し、島津軍二万を釘づけにし、

三千の島津兵を戦死させる奮闘をします。

最後は、武勇を惜しんだ島津の降伏勧告を無視し玉砕しました。

 

大友氏は豊臣秀吉を頼り、宗茂は自動的に豊臣の家臣になります。

宗茂は島津兵を秀吉の援軍が来る間、立花城に立て籠もり少数でこれを撃退。

ようやく秀吉の援軍が到着すると、退却する島津を追撃して

幾つかの城を奪取するという手柄を立てました。

この時、立花宗茂、19歳です。

 

宗茂の弓は正確無比で、浅野長政(ながまさ)を鷹狩りに招いた時、

狩りが不調で獲物がないのを申し訳なく思った宗茂は、

自ら弓を引いて、27メートル離れた場所にいた鴨を射ぬきました。

 

意気消沈していた浅野長政は、手を叩いて祝福します。

すると宗茂は、さらに獲物を探すように従者に命じます。

 

「立花殿、鴨を射ぬかれれば充分です、もし次に失敗したら、

折角の成功が台無しになりますぞ」

 

長政が気をまわして助言しますが、宗茂は聞かず、

草むらから飛び立ったホオジロを狙って矢を放ち、

これも命中させます。

 

鮮やかに、二度も鳥を落とした宗茂の武勇に皆は感嘆し、

しばらく拍手が鳴りやまなかったといいます。

 

宗茂は関ヶ原で西軍についたので敗軍の将になり領地を失いますが

父と義父譲りの義に厚く部下に優しい性格の為に、各地の大名が

支援を申し出て、また部下も身を粉にして働いて宗茂を食べさせたので

衣食住に不自由する事は無かったそうです。

 

関連記事:【二世対決】呉の名将陸遜の息子・陸抗VS雷神の養嗣子・立花宗茂

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

いかがだったでしょうか?東西、弓の名人対決、、

精神力で石を射ぬいてしまう李広、小さな盗賊の持つ木を狙って命中させた

太史慈、弓で船を沈める剛力、源為朝、二度鳥を射て、二度命中させた

正確性の立花宗茂、、いずれも個性派揃いですが、kawausoは、

弓で船を沈没させた平安のガンダム、源為朝を一番に押したいと思います。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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