これまでの記事で、服部半蔵は明智光秀と同一人物であるという都市伝説を取り上げました。この都市伝説についてはあり得ないという結論になりましたが、今回は服部半蔵の死因について取り上げます。
服部半蔵は戦死したのか病死したのか気になる読者がいると思います。前半で服部半蔵について取り上げます。後半では死因について取り上げるとともにその後の服部半蔵について取り上げます。
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服部半蔵とは?
服部氏は伊賀流忍者の一族で、代々当主は通称として服部半蔵と名乗っていました。
2016年の大河ドラマ『真田丸』では、お笑いコンビのハマカーンの浜谷健司が演じていた服部半蔵を見ていると伊賀越えのシーンが印象に残っていると思います。
また、アニメの忍者ハットリくんのモデルになっていることから服部半蔵といえば忍者を思い浮かべる読者が多いと思います。
しかし、実際は忍者ではありません。
戦国時代に徳川家康の家臣として有名な服部半蔵は通称で本名ではありません。
本名は服部正成です。
服部正成は1542年に三河国に生まれました。徳川家康の家臣になると伊賀忍者頭領に任命されます。服部半蔵が有名になったのは伊賀越えです。
徳川家康は天目山の戦いで武田勝頼を滅ぼしてから
織田信長の招待で上方を旅行していました。
1582年に本能寺の変が起こり、織田信長は自害しました。本能寺の変が起こったとき、徳川家康は堺に滞在していました。
本能寺の変で明智光秀が謀反を起こしたことを知ると、徳川家康らは堺から脱出します。その時、服部半蔵は伊賀・甲賀の土豪と交渉したことによって、堺を脱出することができました。伊勢から岡崎まで船で移動することができました。
服部半蔵の死因とその後の服部家
服部半蔵は1597年に死亡しました。
史料には戦死したという記述がありません。病死が有力ではないかと考えられます。
服部半蔵の名前は正成の嫡男・正就が8000石のうち5000石を継ぎましたが、正就の粗暴行為により正就の同心たちがストライキを起こしました。正就が妻の親戚が徳川家康という立場を利用したと言われています。
ストライキが起こったことで、江戸幕府は調査をしました。その結果、服部家は改易となり、分家を残すだけとなりました。
正就は妻の父である松平定勝の屋敷で蟄居生活を送りました。1615年、大坂夏の陣が起こり、手柄を立てるために松平忠輝の陣に加わりましたが、その戦いで戦死したと言われています。
大坂の陣で服部半蔵正就の首などは見つかりませんでした。戦死ではなく、戦いの場所から戦死を装って逃亡して農民として過ごし、生涯を閉じたという説もあります。
服部半蔵は正就の代で改易となりましたが、分家が明治維新まで続き、代々桑名藩の家老として藩主を支えました。江戸時代まで当主は全員通称として服部半蔵と名乗っています。
戦国時代ライターオフィス樋口の独り言
今回は服部半蔵の死因とその後の服部家について取り上げました。
今回の記事を通して、服部家の当主は代々服部半蔵と名乗っていることが分かりました。
服部半蔵で有名なのは戦国時代の服部半蔵正成で、2016年の大河ドラマ『真田丸』などこれまでの大河ドラマでは忍者に近い働きをしていますが、忍者ではないことが分かりました。
服部半蔵正成の死因は史料などに戦死したという記録がないことから1597年に死亡したと結論付けました。死因が史料に直接書かれていないことについて気になる読者がいると思います。
今後の研究に注目したいと思います。
最後に、服部半蔵正就のストライキについて、トリビアの泉で取り上げられていました。学芸員の人が大坂の陣で戦死を装って戦場から逃げて百姓として生涯を閉じたと解説していました。
読者の中にはトリビアの泉のことを思い出した人がいるかもしれません。
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