服部半蔵の死因とは?実際は忍者ではない服部正成の死因に迫る

2019年3月20日


 

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服部半蔵

 

これまでの記事で、服部半蔵(はっとりはんぞう)明智光秀(あけちみつひで)と同一人物であるという都市伝説を取り上げました。この都市伝説についてはあり得ないという結論になりましたが、今回は服部半蔵の死因について取り上げます。

 

服部半蔵は戦死したのか病死したのか気になる読者がいると思います。前半で服部半蔵について取り上げます。後半では死因について取り上げるとともにその後の服部半蔵について取り上げます。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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服部半蔵とは?

時々諜報活動を失敗する服部半蔵

 

服部氏は伊賀流忍者の一族で、代々当主は通称として服部半蔵と名乗っていました。

 

真田丸

 

2016年の大河ドラマ『真田丸』では、お笑いコンビのハマカーンの浜谷健司(はまたにけんじ)が演じていた服部半蔵を見ていると伊賀越えのシーンが印象に残っていると思います。

 

また、アニメの忍者ハットリくんのモデルになっていることから服部半蔵といえば忍者を思い浮かべる読者が多いと思います。

しかし、実際は忍者ではありません

 

徳川家康

 

戦国時代に徳川家康(とくがわいえやす)の家臣として有名な服部半蔵は通称で本名ではありません。

本名は服部正成(はっとりまさなり)です

 

服部正成は1542年に三河国に生まれました。徳川家康の家臣になると伊賀忍者頭領に任命されます。服部半蔵が有名になったのは伊賀越えです。

 

徳川家康は天目山の戦いで武田勝頼(たけだかつより)を滅ぼしてから

織田信長(おだのぶなが)の招待で上方を旅行していました。

 

 

燃える本能寺

 

1582年に本能寺の変が起こり、織田信長は自害しました。本能寺の変が起こったとき、徳川家康は堺に滞在していました。

 

本能寺の変で明智光秀が謀反を起こしたことを知ると、徳川家康らは堺から脱出します。その時、服部半蔵は伊賀・甲賀の土豪と交渉したことによって、堺を脱出することができました。伊勢から岡崎まで船で移動することができました。

 

 

 

服部半蔵の死因とその後の服部家

 

服部半蔵は1597年に死亡しました

 

史料には戦死したという記述がありません。病死が有力ではないかと考えられます。

 

服部半蔵の名前は正成の嫡男・正就(まさなり)が8000石のうち5000石を継ぎましたが、正就の粗暴行為により正就の同心たちがストライキを起こしました。正就が妻の親戚が徳川家康という立場を利用したと言われています。

 

ストライキが起こったことで、江戸幕府は調査をしました。その結果、服部家は改易となり、分家を残すだけとなりました

 

正就は妻の父である松平定勝(まつだいらさだかつ)の屋敷で蟄居生活を送りました。1615年、大坂夏の陣が起こり、手柄を立てるために松平忠輝(まつだいらただてる)の陣に加わりましたが、その戦いで戦死したと言われています。

 

大坂の陣で服部半蔵正就の首などは見つかりませんでした。戦死ではなく、戦いの場所から戦死を装って逃亡して農民として過ごし、生涯を閉じたという説もあります。

 

服部半蔵は正就の代で改易となりましたが、分家が明治維新まで続き、代々桑名藩の家老として藩主を支えました。江戸時代まで当主は全員通称として服部半蔵と名乗っています。

 

 

戦国時代ライターオフィス樋口の独り言

三国志ライター オフィス樋口

 

今回は服部半蔵の死因とその後の服部家について取り上げました。

 

今回の記事を通して、服部家の当主は代々服部半蔵と名乗っていることが分かりました。

 

服部半蔵で有名なのは戦国時代の服部半蔵正成で、2016年の大河ドラマ『真田丸』などこれまでの大河ドラマでは忍者に近い働きをしていますが、忍者ではないことが分かりました。

 

服部半蔵正成の死因は史料などに戦死したという記録がないことから1597年に死亡したと結論付けました。死因が史料に直接書かれていないことについて気になる読者がいると思います。

 

今後の研究に注目したいと思います。

 

最後に、服部半蔵正就のストライキについて、トリビアの泉で取り上げられていました。学芸員の人が大坂の陣で戦死を装って戦場から逃げて百姓として生涯を閉じたと解説していました。

 

読者の中にはトリビアの泉のことを思い出した人がいるかもしれません。

 

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自己紹介:フリーランスで予備校の講師をしています。 歴史が好きで、予備校では主に日本史を指導しています。 センター試験の点数を40点台から80点台に伸ばした実績があります。 好きな歴史人物:徳川慶喜(理由:多趣味であることが共通しているから)

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