北宋(960年~1127年)の景徳元年(1004年)に、北宋第3代皇帝の真宗(しんそう)は北方の遼(916年~1125年)と和議を結びました。
澶州(現在の河南省濮陽市)で結んだことから、この和議を「澶淵の盟」と呼びます。実はこの和議の締結後に、北宋は財政危機に落ちていきます。無論、当時の皇帝真宗も他の官僚も気づいていません。
徐々に始まっていたのです。
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澶淵の盟の影響:影響真宗の不安
澶淵の盟以降、真宗はすっかり暇になりました。遼との戦争も無くなり、経済的にも余裕が出てきました。国庫には、北宋初代皇帝太祖と第2代皇帝太宗が貯めた金がたっぷりとあります。
あれを使いたい気持ちがありました。しかし、何に使えばよいのか分かりません。
ところで真宗は、澶淵の盟について納得していない点がありました。真宗は澶淵の盟が〝城下の盟〟と似ていると感じていました。
城下の盟とは、春秋時代に異民族の楚が絞という都市を攻めた時に、計略で絞を打ち破り、城壁の下で屈辱的な講和を結ばせた故事です。真宗は嫌な気持ちがぬぐえませんでした。
そんな真宗の前に1人の男が姿を現しました。
封禅の儀式の提案
その男は王欽若と言います。王欽若はかつて遼が侵攻した時に、江南に避難することを提案しました。
ところが、この提案を宰相の寇準から怒鳴られて恥をかかされたので、寇準に恨みを持っていました。王欽若は寇準に対する恨みを晴らすために、真宗にある提案をしました。(翻訳は現代の人に分かりやすくしています)
「澶淵の盟は城下の盟と一緒です。これは皇帝のやる事ではありません」と王欽若は言った。
「確かに私もそう思う」と真宗は言った。
「ここは澶淵の盟の恥をカバーする事をやっておくべきです」
「それじゃあ、何をすればよいのだ?」
「皇帝の威光を示すために、封禅の儀式を行いましょう」
〝封禅の儀式〟とは秦(前221年~前206年)の始皇帝や前漢(前202年~後8年)の第7代皇帝武帝が行った儀式です。しかし、詳細な内容は現在も不明です。有名な皇帝がやった儀式なので、真宗はすぐにその提案に乗りました。
澶淵の盟の影響:天書事件
王欽若が最初に行ったのは、宰相の寇準の罷免でした。理由は澶淵の盟を行ったことでした。邪魔者を消した真宗と王欽若は、封禅の儀式に取り掛かることに決めました。しかし、行うにも大儀名分がなければいけません。
そこで王欽若は巻物に難しい文字を書いて、夜中に宮中の門にこっそりと置きました。翌朝、巻物を発見した人は大騒ぎしました。
真宗と王欽若は2人そろって、「これは天からのお告げだ。これより、封禅の儀式を行う」と言いました。
この事件を「天書事件」と言います。事件というより、ヤラセです。
現在、テレビ番組でこんな事をしたら大問題です。また、これに便乗した地方官が似たような巻物を献上しました。
機嫌をよくした真宗は大中祥符元年(1008年)10月に、封禅の儀式を行いました。この時の費用は、遼に与えるお金の30倍でした。遼に与えるお金が30万両です。その30倍なので900万両です。
さらに封禅終了後は、地の神を祭る儀式を行っていますが、この時は封禅の倍の金を投じているようです。どんな使い方をすれば、こんなに減るのでしょうか。
なにしろ、儀式が秘密なので分かりません。
さらなる散財
真宗はその後も天書の保管のために、「玉清昭応宮」という壮大な建造物に着手しました。普通に建築したら15年かかるのに、昼夜兼行で人々を働かせ7年で完成させました。
少しでも計画と違っていたら、宦官が監督してやり直しをさせていました。おかげで、国力の半分は費やされました。
だが、この建造物は北宋第4代皇帝仁宗の時に焼失して、現在は残っていません。
宋代史ライター 晃の独り言
よく北宋は第8代皇帝徽宗が滅ぼしたと言われています。だが、滅亡の一歩は第3代皇帝真宗の時から始まっていたのです。
真宗の贅沢により、北宋は次第に中流階級が没落して民が飢えて苦しみました。
この苦しみを誕生した政治家が王安石でした。しかし、それは別の話です。
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