澶淵の盟はどんな影響が出たの?堕落する真宗と北宋の滅亡の始まり

2019年3月24日


 

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「遼」の国旗をバックとした兵士

 

北宋(ほくそう)(960年~1127年)の景徳元年(1004年)に、北宋第3代皇帝の真宗(しんそう)(しんそう)は北方の(りょう)(916年~1125年)と和議を結びました。

 

澶淵の盟 北宋と遼の盟約

 

澶州(せんしゅう)(現在の河南省濮陽市(ぼくようし))で結んだことから、この和議を「澶淵の盟(せんえんのめい)」と呼びます。実はこの和議の締結後に、北宋は財政危機に落ちていきます。無論、当時の皇帝真宗も他の官僚も気づいていません。

 

徐々に始まっていたのです。

 

自称・皇帝
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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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澶淵の盟の影響:影響真宗の不安

宋銭 お金と紙幣

 

澶淵の盟以降、真宗はすっかり暇になりました。遼との戦争も無くなり、経済的にも余裕が出てきました。国庫には、北宋初代皇帝太祖(たいそ)と第2代皇帝太宗(たいそう)が貯めた金がたっぷりとあります。

 

あれを使いたい気持ちがありました。しかし、何に使えばよいのか分かりません。

 

ところで真宗は、澶淵の盟について納得していない点がありました。真宗は澶淵の盟が〝城下の盟〟と似ていると感じていました。

 

城下の盟とは、春秋時代に異民族の()(こう)という都市を攻めた時に、計略で絞を打ち破り、城壁の下で屈辱的な講和を結ばせた故事です。真宗は嫌な気持ちがぬぐえませんでした。

 

そんな真宗の前に1人の男が姿を現しました。

 

 

 

封禅の儀式の提案

 

その男は王欽若(おうきんじゃく)と言います。王欽若はかつて遼が侵攻した時に、江南に避難することを提案しました。

 

寇準

 

ところが、この提案を宰相の寇準(こうじゅん)から怒鳴られて恥をかかされたので、寇準に恨みを持っていました。王欽若は寇準に対する恨みを晴らすために、真宗にある提案をしました。(翻訳は現代の人に分かりやすくしています)

 

「澶淵の盟は城下の盟と一緒です。これは皇帝のやる事ではありません」と王欽若は言った。

 

「確かに私もそう思う」と真宗は言った。

 

「ここは澶淵の盟の恥をカバーする事をやっておくべきです」

 

「それじゃあ、何をすればよいのだ?」

 

「皇帝の威光を示すために、封禅の儀式を行いましょう」

 

秦の始皇帝

 

封禅(ほうぜん)の儀式〟とは(しん)(前221年~前206年)の始皇帝(しこうてい)前漢(ぜんかん)(前202年~後8年)の第7代皇帝武帝(ぶてい)が行った儀式です。しかし、詳細な内容は現在も不明です。有名な皇帝がやった儀式なので、真宗はすぐにその提案に乗りました。

 

北宋・南宋

 

 

澶淵の盟の影響:天書事件

 

王欽若が最初に行ったのは、宰相の寇準の罷免でした。理由は澶淵の盟を行ったことでした。邪魔者を消した真宗と王欽若は、封禅の儀式に取り掛かることに決めました。しかし、行うにも大儀名分がなければいけません。

 

そこで王欽若は巻物に難しい文字を書いて、夜中に宮中の門にこっそりと置きました。翌朝、巻物を発見した人は大騒ぎしました。

 

真宗と王欽若は2人そろって、「これは天からのお告げだ。これより、封禅の儀式を行う」と言いました。

 

この事件を「天書事件(てんしょじけん)」と言います。事件というより、ヤラセです。

 

現在、テレビ番組でこんな事をしたら大問題です。また、これに便乗した地方官が似たような巻物を献上しました。

 

機嫌をよくした真宗は大中祥符元年(1008年)10月に、封禅の儀式を行いました。この時の費用は、遼に与えるお金の30倍でした。遼に与えるお金が30万両です。その30倍なので900万両です。

 

さらに封禅終了後は、地の神を祭る儀式を行っていますが、この時は封禅の倍の金を投じているようです。どんな使い方をすれば、こんなに減るのでしょうか。

 

なにしろ、儀式が秘密なので分かりません。

   

 

さらなる散財

 

真宗はその後も天書の保管のために、「玉清昭応宮」という壮大な建造物に着手しました。普通に建築したら15年かかるのに、昼夜兼行で人々を働かせ7年で完成させました。

 

少しでも計画と違っていたら、宦官が監督してやり直しをさせていました。おかげで、国力の半分は費やされました。

 

だが、この建造物は北宋第4代皇帝仁宗(じんそう)の時に焼失して、現在は残っていません。

 

宋代史ライター 晃の独り言

 

よく北宋は第8代皇帝徽宗(きそう)が滅ぼしたと言われています。だが、滅亡の一歩は第3代皇帝真宗の時から始まっていたのです。

 

真宗の贅沢により、北宋は次第に中流階級が没落して民が飢えて苦しみました。

この苦しみを誕生した政治家が王安石(おうあんせき)でした。しかし、それは別の話です。

 

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北宋・南宋

 

 

 

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