北宋(960年~1127年)の景徳元年(1004年)に、北宋第3代皇帝の真宗は北方の遼(916年~1125年)と和議を結びました。澶州(現在の河南省濮陽市)で結んだことから、この和議を「澶淵の盟」と呼びます。
遼に毎年多額のお金を献上することで両国の平和は保たれました。この和議の立役者は、寇準という人物です。
「こうじゅん」といっても、健康食品ではありません。
まあ、冗談はこれぐらいにしておきます。今回は澶淵の盟の立役者の寇準という人物について解説致します。
19歳で科挙に合格 スピード出世をする寇準
寇準は北宋第2代皇帝太宗の太平興国4年(979年)に科挙に合格しました。合格した時は19歳でした。科挙は20の後半から30の前半で合格が普通なので、寇準は生粋のエリートでした。寇準は地方官を歴任後に中央に抜擢されました。異例のスピード出世でした。
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ところが、これを良く思っていない人物がいました。張詠という人物でした。妬みではなく友人として心配していたのです。張詠はある人に、こんな事を語りました。
「寇準は人が千言費やすことを一言で片づける。また、仕官や出世が早いから学ぶことが少ない」
この文章から察するに寇準は、自分が出来るために他人の言うことには耳を貸さなかったようです。もしかしたら、現代でいうパワハラも平気でしていたかもしれません。
贅沢で民を苦しめる寇準
寇準は金遣いが荒かったようです。決定的な逸話が残っています。鄧州(現在の河南省南陽市)の地方官の時です。鄧州の名物は蝋燭です。首都の開封も作れないレベルの蝋燭がたくさんありました。寇準は若い時から性格が贅沢だったので、鄧州の蝋燭を買い占めていました。
民の税金を自分の欲望に費やしたのです。また、買い占めた蝋燭を屋敷の隅から隅まで飾って火をともしたそうです。便所の中まで蝋燭があったそうです。その後は、知り合いを呼んで大宴会です。こんな事を延々と繰り返したので、鄧州の民はたっぷり苦しめられました。
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寇準が推薦するも断られる丁謂
しかし、寇準も贅沢ばかりしているわけではありません。しっかりと有能な人材を見つけては中央に推薦していました。その1人が丁謂でした。丁謂は財務能力に長けていたので、寇準は宰相の李沆に推薦しました。ところが、李沆は何度も断りました。頭にきた寇準は質問しました。
「丁謂の才能は無用なのですか?それとも私が間違っているのですか?」すると、李沆は答えました。
「丁謂は人の上に立つべき人間じゃない。いつの日か私の言った事が分かるはずだ」
言われた当時の寇準は気付きませんでしたが、後年に丁謂の人間性が見えてきたようです。寇準は人にこう言ってました。
「丁謂は宰相の器ではない」
李沆は人を見る目を持っていたのです。
澶淵の盟
真宗の景徳元年(1004年)に、遼の第6代皇帝聖宗が20万の軍勢で親征を行いました。北宋は金陵(現在の南京)に避難する意見も出ましたが、寇準が真宗自らの親征を強く主張しました。しかし、寇準には最初から戦う意思はありません。
彼の本当の目的は和議でした。
長年の戦争で北宋も財政が危ないと感じた寇準は、和議を結ぶことを決意したのです。北宋と遼は澶州で和議を結びました。この和議は遼が滅びるまで守られました。
悲惨な晩年を送る寇準
景徳3年(1006年)に寇準は罷免されました。これは王欽若の策略でした。王欽若は澶淵の盟の時に金陵に避難することを提案して、寇準から怒鳴られた過去がありました。今回の罷免は、その報復でした。やがて、王欽若も罷免されて寇準は再び宰相に任命されました。しかし天禧4年(1020年)に、寇準は再び罷免されました。この時、寇準を罷免する事を願い出たのは丁謂でした。
丁謂はかつて寇準と会食中に、誰が見ても分かるおべっかを使いました。そのため、寇準の怒りを買ったのです。また、丁謂は王欽若にも協力したことがありました。要するに丁謂は自分に都合が良ければ、組む相手は誰でもよいのです。良く言えば大物政治家、悪く言えば風見鶏です。寇準は地方に流され、そこで生涯を閉じました。63歳でした。悲惨な生涯を閉じる結果になったのは、贅沢をした天罰と言われています。
宋代史ライター 晃の独り言
以上、寇準の生涯でした。ちなみに丁謂が会食中に寇準に行ったおべっかは、寇準の髭をふいてあげることでした。この寇準と丁謂の故事から、目上の人への、あからさまなおべっかという意味で「髭の塵を払う」ということわざが誕生しました。
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