今回は、大河ドラマなどでよく取り上げられる織田信長について取り上げます。
織田信長といえば、抵抗する勢力を女や子ども関係なく虐殺するという残酷な一面や楽市楽座・鉄砲の三段打ちなど大胆なことを考えるという革新的な印象を受ける人が多いと思います。
しかし、実際の織田信長については、残酷な人物ではなく優しい人物であることが分かっています。
鉄砲の三段打ちについては、今川義元が織田信長の父・織田信秀との戦いで既に実践していたといわれています。
この記事では、織田信長の本当の人柄について取り上げます。
前半では豊臣秀吉・前田利家・滝川一益ら織田信長の家臣となった経緯について取り上げます。
後半では家臣の夫婦げんかの仲裁などのエピソードを取り上げます。
なぜ豊臣秀吉や前田利家らが信長の家臣になれたのか?
織田信長は19歳の若さで父・織田信秀から家督を継ぎました。
当時、織田信長は駿河の戦国大名・今川義元の領国経営「寄親・寄子」制を参考にしようとしますが、信長に従う家臣は少なく、尾張は小国であるため今川義元の制度を真似することができませんでした。
組織を作るために信長は当時の二男・三男以下の男子に注目します。当時、武士の次男・三男以下はニートに近い状態で仕事がありませんでした。
信長は仕事のない次男・三男以下の若者と相撲をとるようになり、交流を始めました。この若者との交流によって信長の家臣となりました。
百姓出身では木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)、武士では前田利家や滝川一益らが有名です。
武士の次男以下は信長直属の兵士となり、戦うことに専念することができました。信長は仕事のない若者に仕事を与えることができたという点でいい人といえるのかもしれません。また、戦うことに専念することで、農家の繁忙期に兵が集められないといった弱点も克服することができたといわれています。
いい人としての織田信長
最新の研究では、織田信長の見方について変わりつつあります。ここでは、織田信長がいい人である具体例を取り上げます。
家臣の豊臣秀吉が浮気し、秀吉とおねが夫婦げんかになりました。このとき、信長はおねに手紙を送っています。なお、信長がおねに送った手紙で、秀吉のことをサルではなくハゲネズミと書いています。実際に信長は秀吉をサルと呼んだ記録はありません。
『信長公記』によれば、美濃国と近江国の国境近くに山中という場所がありました。その場所に「山中の猿」と呼ばれる障害のある男が乞食として暮らしていました。信長がこの男を初めて見たとき、木綿二十反を山中の猿に与えて、これを金に換えて小屋を建ててやるように、また飢えないように米や麦を施すように、村人に要請しました。
このエピソードについては大河ドラマなどでほとんど取り上げられることがないのであまり知られていません。
戦国時代ライターオフィス樋口の独り言
今回はいい人としての織田信長について取り上げました。この記事の前半では、二男・三男以下のニートに近い状態の若者を家臣にしたことを紹介しました。百姓の木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)を家臣として取り立てたことも紹介しました。
後半では、信長の大河ドラマや教科書などでは分からない優しい人柄が分かるエピソードを取り上げました。ホームレスに近い状態の障害者を救済したことについて、この記事の読者の中には意外だと感じる人がいるかもしれません。
この記事を通して、織田信長の人柄について身分に関係なく交流していたことが分かります。交流によって能力のある家臣を登用できたのかもしれません。闘いで死んだ家臣がいると号泣したというエピソードも残されています。
今後、織田信長の人柄について新しく発見されたことが大河ドラマなどで反映されるか注目したいと思います。
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