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澶淵の盟はどんな内容なの?澶淵の盟はどうやって結んだの?

2019年3月28日


 

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澶淵の盟 北宋と遼の盟約

 

北宋(ほくそう)(960年~1127年)の景徳元年(1004年)に、北宋第3代皇帝の真宗(しんそう)は北方の(りょう)(916年~1125年)と和議を結びました。遼とは現在の北京(ぺきん)から大同市付近の「燕雲十六州(えんうんじゅうろくしゅう)」をめぐって争いが絶えず、国力が互いに疲弊しました。

 

そのため、最後は相互間で不戦条約の締結に至りました。澶州(せんしゅう)(現在の河南省濮陽市)で結んだことから、この和議を「澶淵の盟(せんえんのめい)」と呼びます。

 

ところで、この澶淵の盟の詳細な内容は高校の世界史でも習いません。そこで今回は澶淵の盟の内容について紹介致します。

 

自称・皇帝
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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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遼の南下

「遼」の国旗をバックとした兵士

 

北宋第3代皇帝真宗の景徳元年(1004年)に、遼の第6代皇帝聖宗(せいそう)が、20万の軍勢で親征を行いました。

 

寇準

 

北宋は金陵(きんりょう)(現在の南京)に避難する意見も出ましたが、宰相の寇準(こうじゅん)が真宗自らの親征を強く主張しました。

 

寇準の意見に説得された・・・・・・というより、半分脅迫された真宗は仕方なく親征しました。

しかし、寇準には最初から戦う意思はありません。彼の本当の目的は和議でした。

 

長年の戦争で北宋も財政が危ないと感じた寇準は、和議を結ぶことを決意したのです。

 

 

戦場で大宴会

徐邈(じょばく)は曹操の禁酒令を破った

 

一方、連れてこられた真宗はびびっていました。真宗の父は第2代皇帝太宗(たいそう)です。しかし、父のように戦場を疾駆して生きた人ではなく、温室育ちのお坊ちゃんです。

 

明日にはどうなるのだろうか、と真宗は眠れませんでした。もしかしたら、寇準は自分を遼に差し出して降伏するかもしれない。真宗はすっかり疑心暗鬼になっていました。

 

もう我慢できないと思った真宗は、部下の1人を呼んで寇準の動向を探らせました。部下が寇準の陣営まで様子を見にいくと、そこには驚きの光景が広がっていました。

 

寇準や他の将軍は酒を飲んで楽しく過ごしていました。その様子を伺った真宗の部下は、すぐに報告に戻りました。話を聞くと真宗は、寇準に戦う意思が無いと分かったので安堵しました。

 

割と単純な皇帝ですね・・・・・・

 

 

和議交渉

 

こうして和議の交渉が始まりました。遼に毎年支払う金額に関して真宗は、「100万両までなら大丈夫かな?」と言っていました。

 

さすが、お坊ちゃまです。金銭感覚が狂っています。

 

北宋の使者は曹利用(そうりよう)が選ばれました。寇準は曹利用にあらかじめ伝えていました。

 

「お金が30万両を超えた時は、お前を斬る」

 

びびった曹利用は、渋々出発しました。ところが、遼も簡単には納得しません。遼は領土返還を要求しました。

 

実は燕雲十六州は北宋以前の王朝の後周(951年~960年)が、莫州と(えい)州の2州を奪還していたのです。後周の後継王朝の北宋は、莫州と瀛州を引き継いで領有しました。遼の言い分もありますが、北宋も納得できませんでした。

 

結局、北宋は領土返還の要求を徹底的に拒否してお金で解決する道を選びました。

   

 

澶淵の盟締結

 

曹利用は交渉の結果、真宗のところに戻って結果を報告しました。

 

結果は以下の通りです。

 

・領土は割譲せずに現状維持すること

・双方の君主を「皇帝」と呼ぶこと

・毎年、絹20万匹・銀10万両を遼に贈ること

・国境付近に貿易施設を設置すること

 

絹20万匹+銀10万両=30万両です。曹利用はギリギリセーフでした。

 

曹利用は帰って来た時に、指3本を真宗に向けました。それを見た真宗は「300万!?」と驚きました。だが、勘違いと分かると「ああ、良かった」とほっとしたようです。

 

こうして澶淵の盟により、遼と北宋は100年以上の平和が保たれました。

 

宋代史ライター 晃の独り言

 

今回は澶淵の盟について解説しました。

この和議はお金で買った平和なので、後世から非常に評判が悪いのです。

 

また、毎年お金を支払うことから財政に負担が掛かるという見解が昔はありました。しかし、近年はその見解も変わりました。

 

その点については今後解説していきます。

 

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北宋・南宋

 

 

 

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