曹休は魏(220年~265年)の将軍です。『三国志』には曹操の「族子」と記載されています。諸橋轍次編『大漢和辞典』で調べると、「族子」とは、(1)親類の子、同族の子 (2)兄弟の子となっています。おそらく、1番近くて曹操の「甥」と思われます。さて、この曹休は近年になって墓が発掘されました。これには筆者もびっくりしました。そこで今回は発掘された曹休の墓に関して解説いたします。
工事中に曹休の墓を発見
『三国志』によると曹休は魏の太和2年に呉(222年~280年)と石亭で戦って敗北して、その精神的ショックから亡くなっています。ただし、どこに葬られたのかについては『三国志』には何も記載されていません。
やがて時は流れて日本の平成21年(2009年)のことです。中華人民共和国の河南省洛陽市の邙山にて高速道路の拡張工事中に、遺跡を発見しました。前年に北京オリンピックが終わって中国は好景気の時期であり、各地で工事が行われていました。さて、見つけた遺跡はすぐに河南省文物局に連絡されて調査が始まりました。
荒らされていた曹休の墓
文物局の人が入ってみると、物があまり無かったことから盗掘されていることが判明しました。まあ、これは不謹慎ですけど仕方ないです。墓泥棒はいつの時代、どこの国でもハイエナの如くすぐに宝のありかをかぎつけますから・・・・・・調査の結果、墓の大きさは東西(横)50.6メートル、南北(縦)21.1メートル、深さ10.5メートルです。
レンガを積んで、複数の部屋を設計しています。また、レンガには「左」「右」「第一」「第二」という文字を刻んでいることから作る工程にも順番があったことが分かっています。さらに、土器やスプーンが見つかりました。おそらく、生前に墓の主が使っていたものと考えられます。土器やスプーンは形から、中国の三国時代(220年~280年)のものと判明しました。
曹休の墓から人骨を発見!!
発掘チームはしばらくすると、人骨を発見しました。発見された人骨は3体でした。1体は男性、2体は女性です。しかし、これだけでは誰か分かりません。なぜなら墓に墓誌銘や神道碑が無かったのです。墓誌銘や神道碑は生前のその人物の業績を記したものであり、墓の近くや中にあります。残っていない理由は盗掘で持ち去られたか、王朝が西晋(265年~316年)に交代した時に破壊された可能性があります。発掘チームが1度出した結論は、三国時代の身分の高い人物の墓でした。
曹休の墓と判明
発見から1年後の平成22年(2010年)に、発掘チームはある結論を出しました。昨年に洛陽で発見した墓の主は「曹休」と発表したのです。決定づけたのは出土品の印鑑でした。洗って文字を丹念に調べたところ〝曹休〟と記されていたのです。これは中国でニュースとなり話題となったそうです。
ちなみに筆者は当時大学で勉強中でしたけど、この話題は知りませんでした。2009年に発掘された曹操の墓は知っていましたけど、曹休の墓は全く知りませんでした。
「晃、お前の勉強不足が悪い!」
「読者に申し訳ないと思え!」
そうですね、反省します。
DNA鑑定を行わず深まる謎
さて、問題は墓の中にある人骨です。女性は奥さんと妾(?)と考えられています。男性は当然、曹休です。ならば次にやることは、たった1つ。DNA鑑定です。
実は2009年に発掘された曹操の墓からも男性の人骨が見つかっています。一説によると、その骨は曹操と言われています。もちろん、中には疑っている人もいます。ならば、やることは1つしかありません。DNA鑑定を行ってその真偽を確かめることです。ところが、これはDNAの専門家たちが無理だと言っていたそうです。
DNA鑑定が出来なかった理由
理由は以下の通りでした。
(1)2000年以上経過しており骨の保存状態が完璧でない
(2)現在の技術では母系は3世代以内で識別可能だが、父系は3世代以内は識別不可。(2010年時点)
現在まで、骨が鑑定されたという話は聞いていません。今後DNAの技術が発達することを祈ります。
三国志ライター 晃の独り言
以上が曹休の墓に関しての解説でした。
曹休は『三国志演義』の影響のせいか、呉の偽装投降に引っかかって負けた情けない奴というレッテルが貼られています。この発掘を機に評価が変わってもらいたいです。
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