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後唐の内乱
後唐の長興4年(933年)に明宗が亡くなると、次に即位したのは閔帝でした。ところが、義兄弟の李従珂がこの即位に反対しており、あっさりと帝位を簒奪されました。
こうして李従珂が新しい皇帝になりました。これが後唐最後の皇帝の末帝です。ところが、この即位に納得しない人物がいました。それは後唐第2代皇帝明宗の娘婿の石敬唐です。
石敬唐は娘婿の自分こそ、帝位を継ぐにふさわしいと思っており反乱を起こすための蓄財をしていました。一方、保護されていた耶律突欲も李従珂の即位に反対でした。2人が考えた末に出した結論は、反乱を起こす事でした。
燕雲十六州を与える
耶律突欲は弟の太宗に連絡をとりました。石敬唐を助けることと今までのことを全て水に流そうと伝えました。もちろんタダではなく、河北と山西の土地の割譲を条約を提案しました。
明け渡す土地は次の通りでした。カッコ内は現在の位置。
幽州(北京)、(2)薊州(薊県)、(3)瀛州(河間県)、 (4)莫州(任邱県)、(5)涿州(涿県)、(6)檀州(密雲県)、(7)順州(順義県)、(8)新州(涿鹿県)、(9)嬀州(懐来県)、(10)儒州(延慶県)、(11)武州(宣化県)、(12)蔚州(蔚県)(13)雲州(大同市)、(14)応州(応県)、(15)寰州(朔県東北)、(16)朔州(朔県)
条約を聞いた太宗は大喜びで積極的に協力してくれました。後唐の清泰3年(936年)に契丹と共同戦線により石敬唐は後唐を滅ぼして、後晋(936年~946年)を建国しました。
建国後に石敬唐は皇帝に即位しました。これが後晋の高祖です。石敬唐は協力してくれた契丹には約束通り、土地はしっかりと与えました。
耶律突欲の最期
ところで耶律突欲は、どうなったのでしょうか。実は彼は翌年に亡くなりました。李従珂は耶律突欲の内通を恨んで、暗殺者を放っており、あっけなく殺されました。
宋代史ライター 晃の独り言
以上が、東丹国とその国王耶律突欲の生涯でした。耶律突欲の息子はその後、挙兵して自分の父を雑に扱った祖母の述律皇后を倒しました。これが遼の第3代皇帝世宗です。
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