織田信長は本能寺の変で亡くなるまでの間、いろいろな事をしてきましたが、実際のところ彼の功績とは一体何なのでしょうか。今回は織田信長の功績について紹介していきたいと思います。
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織田信長の功績その1:商業の自由と流通の発達
織田信長の功績その1としましては商業の自由と流通の発達と言えるのではないのでしょうか。
織田信長は自国の領内で商業上の特権を持っていた座を無くして、座に属していない人でも商いを行うことができるようにします。その結果織田家の領内において経済が活性化することで、経済力が増加していきます。
また街道の要所にあった関所を無くして、道を整備することで物が行き来しやすいようにします。この結果、織田家の領内で物の流通がスムーズに行くことになり、上記で紹介したものは織田信長の功績と言えるのではないのでしょうか。
織田信長の功績その2:火器戦術の巧さ
織田信長の功績その2としましては火器戦術の巧さと言えると思います。
織田信長は種子島に伝来された鉄砲に早くから目をつけて、鉄砲伝来から10年後には戦へ鉄砲を導入しています。織田信長が戦に鉄砲を導入した当時、大部分の戦国大名はまだ新兵器・鉄砲を戦に運用していませんでした。
その後織田信長は長篠の戦いで数千丁の鉄砲を用いて、戦いを挑んできた武田騎馬隊へ大損害を与えることに成功しています。また織田信長は鉄砲だけでなく大砲を戦場に用いています。
初めて織田信長が大砲を戦で使用したのは三好三人衆が篭城していた野田・福島城に対してです。織田信長はこの城に対して大砲で攻撃している記述が信長公記に記載されています。
その後織田信長は伊勢長島に篭城している一向一揆衆に対して、伊勢水軍を動員して海上から大砲で攻撃しています。また織田信長は毛利水軍と「木津川河口」での戦いでは鉄甲船に大砲を積んで、毛利水軍をボコボコにしています。
このように織田信長は鉄砲だけでなく、大砲も用いた火器戦術に優れた戦術を持って敵を打ち破っています。
織田信長の功績その3:己の信念を貫いた所
織田信長の功績その3としては、己の信念を貫いたところです。
織田信長は比叡山の焼き討ちや長島・越前で割拠していた一揆衆などに対して大量虐殺をしています。いかに戦国時代で人命が軽く見られていた時代だとしても、上記はありえないことだと思う人も多いでしょう。
また織田信長は大量虐殺を行ったせいで、現在でも第六天魔王や魔王などの呼び名がついてしまいます。しかし織田信長は理由なくこれらの大量虐殺を行ったわけではなく、しっかりとした理由があってこれらの残虐行為を行ったのです。
織田信長が比叡山を焼き討ちして、僧侶を大量に虐殺した理由は大量虐殺を行うことで他の勢力が反乱を起こさせる気力を失わせることにあります。
また越前・長島の一向一揆衆を虐殺したのは天下を統一するために反乱勢力を残しておくわけにはいかなかったからです。
織田信長は他人から受ける自分のイメージなどを無視してこれらの大量虐殺を行ったことで短期間のうちに広大な領土を得ることに成功し、天下統一の一歩手前まで行ったと考えることが出来ると思います。
もし織田信長が大量虐殺に少しでもためらいを持っていれば、残虐な行為をすることができずに二の足を踏んでしまい、あれほど短期間で広大な領土を得ることなどできなかったでしょう。
レンは織田信長の虐殺行為を擁護するわけではありませんが、これらを考え織田信長の虐殺行為を鳥瞰すると織田信長が行った大量虐殺も彼の実績の一つと考えることが出来ると思うのですが、みなさまはどのように思いますか。
戦国史ライター黒田レンの独り言
今回は織田信長の功績について紹介しました。
色々と画期的な政策などをしているため、つまるところ織田信長の実績がなんなのか分からない方も多いと思い、今回紹介してみました。ほかにも織田信長はいろいろな実績を残しているので、興味がある方はこの機会に調べてみるのもいいかもしれませんね。
■参考文献 織田信長 天下布武の足跡など
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