上杉謙信の墓はどこにある?林泉寺と林泉寺へのアクセス方法と歴史雑学

2019年5月7日


 

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上杉謙信

 

今回は上杉謙信(うえすぎけんしん)の墓について紹介します。上杉謙信といえば、敵に塩を送るとか天下を狙わない戦国武将で有名です。この記事では、上杉謙信の墓を3箇所を取り上げます。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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上杉謙信の墓:高野山

 

高野山(こうやさん
)
和歌山県(わかやまけん)にあります。金剛峯寺(こんごうぶじ
)
空海(くうかい)弘法大師(こうぼうだいし))が開いた真言宗(しんごんしゅう
)
の総本山で、高野山にあります。平安時代中期以降、貴族や上皇らが高野詣で高野山を参詣することが盛んになりました。高野山だけでなく熊野詣も盛んになり、その当時できた参詣道が変わることなく残されていたことから2004年に世界文化遺産に登録されました。

 

 

上杉謙信

 

 

高野山にある上杉謙信の墓について取り上げます。上杉謙信は家臣らの領地争いを見て嫌になり、高野山に出奔したことがあります。大河ドラマで見たことがある読者がいると思います。上杉謙信は幼い頃に真言宗の寺で修行していたことがあり、その時に真言宗と接点があったと考えられます。

 

真田丸 武田信玄

 

高野山には上杉謙信だけでなく、川中島で敵だった武田信玄(たけだしんげん)織田信長(おだのぶなが)明智光秀(あけちみつひで)豊臣秀吉(とよとみひでよし)石田三成(いしだみつなり)徳川家康(とくがわいえやす)など様々な戦国武将の墓もあります。

 

 

 

上杉謙信の墓:林泉寺(新潟県上越市)

 

上杉謙信は越後守護上杉氏(えちごうえすぎし)の守護代だった長尾為景(ながおためかげ
)
の四男として生まれましたが、寺に預けられました。長尾為景の跡を継いだ長尾晴景は病弱で、越後国内での内輪もめが絶えなかったため、晴景は出家していた長尾景虎を寺から呼び戻し、家督を継いで景虎は越後国の戦国大名となりました。関東管領の上杉憲政が北条氏康(ほうじょう うじやす
)
に敗れ、越後国に逃れたときに関東管領となり、上杉謙信と名乗ります。

 

林泉寺は上杉謙信の居城だった春日山城の山麓にあります。長尾為景が春日山城を築きました。春日山城は春日山の山頂にあり難攻不落の城として知られていました。また、城下町としても栄えていました。上杉謙信の墓は新潟県上越市の林泉寺にあります。

 

 

林泉寺への交通アクセスは次の通りです。えちごトキめき鉄道はねうまライン春日山駅から徒歩30分の場所にあります。

 

 

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上杉謙信の墓:林泉寺(山形県米沢市)

亡くなる上杉謙信

 

上杉謙信の死後、上杉景勝(うえすぎ かげかつ
)
が上杉家を継ぎました。上杉景勝は豊臣秀吉から越後国(えちごのくに
)
から会津国に移るように命じられ、東北地方会津藩120万石の大名となりました。豊臣秀吉から五大老の一人として政権の中枢にいました。

 

関ヶ原の戦いは上杉景勝の家臣だった直江兼続が書いた直江状を徳川家康に送ったことがきっかけで始まりました。関ヶ原の戦いでは、石田三成と連携して東北地方で戦いましたが、関ヶ原の戦いで西軍が負けました。

 

西軍が負けたことにより、上杉景勝の石高は会津藩120万石から米沢藩30万石に大幅に減らされ、景勝は米沢藩主となりました。以降、米沢藩主は江戸時代終わりまで上杉氏でした。

 

上杉謙信の遺骸は越後から会津を経て米沢に移ったと伝えられています。林泉寺は越後国の春日山城の山麓にあったのが米沢に移りました。その後、米沢城内に上杉謙信を祀る御堂が建てられましたが、現在も米沢市の林泉寺は上杉氏の菩提寺となっています。

 

 

山形県米沢市の林泉寺のアクセスは次の通りです。JR奥羽本線米沢駅よりタクシーで約12分の場所にあります。

 

 

戦国時代ライター オフィス樋口の独り言

三国志ライター オフィス樋口

 

今回は上杉謙信の墓を3箇所紹介しました。1箇所目は高野山で、上杉謙信と真言宗との接点を取り上げました。2箇所目は新潟県上越市の林泉寺で、城下町として栄えた春日山にあることが分かりました。

 

3箇所目は山形県米沢市の林泉寺を紹介しました。米沢藩主は江戸時代が終わるまで上杉氏でしたが、上杉景勝が米沢藩主になったときに林泉寺は米沢に移ったことが分かりました。

 

最後に、今回取り上げませんでしたが、米沢城内に上杉神社があります。上杉神社には上杉謙信や藩政改革で有名な上杉鷹山の像もあります。今後、上杉謙信の墓だけでなく、ゆかりの地にも注目したいと思います。

 

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上杉謙信特集

 

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自己紹介:フリーランスで予備校の講師をしています。 歴史が好きで、予備校では主に日本史を指導しています。 センター試験の点数を40点台から80点台に伸ばした実績があります。 好きな歴史人物:徳川慶喜(理由:多趣味であることが共通しているから)

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