武田信玄はどんな業績を残したの?内政面や戦の業績を分かりやすく紹介


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真田丸 武田信玄

 

今回は武田信玄(たけだしんげん)について取り上げます。

前半では信濃(しなの)上州(じょうしゅう)駿河(するが)侵略を、後半では内政面での業績をそれぞれ取り上げます。

 

自称・皇帝
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甲斐の武田家とは?

武田信玄

 

甲斐(かい)の武田家は新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)(源義家の弟)を先祖とする名門です。甲斐にあった武田荘の荘官となってから武田と名乗っています。武田信玄は甲斐源氏(かいげんじ
)
が守護を務め始めてから19代目に当たります。

 


 

武田信玄の戦いでの業績とは?

武田信玄

 

武田信玄は甲斐源氏18代目の武田信虎の嫡男として1521年に生まれました。岐秀元白から英才教育を受けて育ちました。武田信玄の旗といえば孫子の有名な句「風林火山(ふうりんかざん)」で有名ですが、武田信玄は軍学の中で孫子を好んでいたからだといわれています。

 

甲斐は独立心の強い家臣が多く、武田信虎(たけだのぶとら
)
は諫言した家臣を手打ちまたは追放しました。武田信玄は父・信虎の暴政を見て対立関係にありました。1541年に、信虎の暴政に苦しむ家臣団とともにクーデターを断行し、武田信虎を追放しました。

 

武田信玄が家督を相続すると、信濃への侵略を開始します。信玄が家督を継いだとき、甲斐は洪水が多く、凶作が続いていました。一方で、信濃は米が取れる肥沃な土地でした。信玄は信濃の肥沃な土地を求めて戦いを続けます。

 

上杉謙信

 

信濃侵略で、諏訪氏・信濃守護だった小笠原氏を倒しました。武田信玄に2度土をつけた村上義清も倒し、信玄は甲斐守護だけでなく信濃守護にもなりました。北信濃の豪族が越後の上杉謙信(うえすぎけんしん)に助けを求めたことで、武田信玄と上杉謙信の間で川中島の戦い(かわなかじまのたたかい
)
が起こります。川中島の戦いは第五次までありますが、勝敗の決着が付かないで終わりました。

 

川中島の戦いの後、今川義元(いまがわよしもと
)
桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい
)
で討ち死にすると、1570年に駿河国を侵略し、今川氏真(いまがわうじざね
)
を滅ぼしました。また、上州(現在の群馬県)も侵略。1572年に三方ヶ原の戦いで徳川家康(とくがわいえやす)を破ると、遠江国(とおとうみのくに
)
三河国(みかわのくに
)
の一部も支配しましたが、病気で倒れ死亡しました。

 

【無敵の騎馬隊を率いて天下を夢見た武田信玄の生涯】
武田信玄


 

武田信玄の内政面での業績

祁山、街亭

 

武田信玄の内政面での業績として治水事業が挙げられます。甲斐が肥沃な土地でなかった要因として洪水が多いことを挙げました。洪水を防ぐために釜無川と御勅使川に堤防を築きます。この堤防によって洪水を防ぐことができたといわれています。現在でも信玄が築いた堤防を「信玄堤」と呼んでいます。

 

甲斐といえば金山が有名です。武田信玄は職人集団「金山衆(かなやましゅう)」と連携して金山開発に成功しました。採掘した金を外交や調略に利用していました。

 

1547年、26歳の若さで武田信玄は法度を制定しました。この法度を『甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい
)
』といいます。甲州法度之次第の最後の条文によれば、国主も法度を破れば処罰を受けると書かれています。国主も従うという画期的な条文で知られています。


  

 

 

戦国時代ライターオフィス樋口の独り言

三国志ライター オフィス樋口

 

今回は武田信玄の生涯について業績を中心に取り上げました。冒頭で甲斐源氏の武田家について取り上げました。武田信玄を題材にした大河ドラマ(1988年『武田信玄』や2007年『風林火山』など)では、国主の武田信玄が新羅三郎義光を祖とすることや甲斐源氏のことを触れているのを耳にした読者がいるかもしれません。

 

次に武田信玄の戦での業績について取り上げました。戦では村上義清に2回負けただけで、ほとんど負け知らないことで有名です。内政面では信玄堤や金山衆と連携した鉱山開発を取り上げました。

 

武田二十四将(馬場信春)をメイン

 

しかし、2007年の大河ドラマ『風林火山』が放送されるようになった頃から武田信玄の騎馬軍団の実態が明らかになりました。武田信玄といえば一致団結して乱れないというのが定説でしたが、家臣は独立心が強く、烏合の衆で信玄の命令を無視することがあったといわれています。

 

内政面の業績で甲州法度之次第を取り上げましたが、最後の条文で国主も法度を破れば処罰を受けると書かれていることについて家臣が従わないからやむを得ず書いたといわれています。今後は武田信玄が烏合の衆から一致団結した騎馬軍団を形成するまでの過程に注目したいと思います。

 

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